MiyanTarumi’s blog

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感想とか色々。数物系は書くか微妙。。。

人間的な、あまりに人間的な。:「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」の永劫回帰論

はじめに

「さくら、もゆ。-as the Night's Reincarnation-」と題されているように,この作品では輪廻あるいは永劫回帰の思想がキーポイントとなっている.ここで述べるのは時間のイマージュではない,世界の在り方という意味での永劫回帰である.力への意志を超えてゆきながら,永劫回帰へと至る道筋,それこそがこの「さくら、もゆ。」で示されているものである.

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miyantarumi.hatenablog.com

 

力への意志

まずは,力への意志を軽く説明しておこう.
力への意志は,それ自体として多数のパースペクティブから語られるが,今は価値と実存の観点から考えてみる.
真理に誠実であるということ,それが真理そのものを食い破っていく.そうして見いだされる境地が力への意志である.キリスト教的な神の死の宣告によって生まれる,真理の不在.その位置から世界は力へと解釈されなおす.力には「観点」と「解釈」の二つの概念が連関している.自分の位置(=観点)から世界を見る(=解釈する)ということ,それが力への意志の原風景である.

強者と弱者はまったく同じように振る舞う.どちらもできる限り自分の力を拡大しようとする.(1838 12[48])

およそ「認識」という語が意味を持つ限り,世界は認識されうる.だが,世界はほかの仕方でも解釈されうるのだ.世界はその背後にはいかなる意味も持たず,無数の意味を持つ.「パースペクティブ主義」(1886 7[60])

ニーチェがこのように述べているように,自己に固有なパースペクティブによって,他者を従えようととする闘争,それが力への意志である.この闘争は終わることのない闘争である.自己と他者が互いにそれぞれのパースペクティブを持ってそれぞれを評価する,この位相にいる限り,我々は常に力を,他者を自己に従えようとすることを,望まざるを得ない.それゆえ,この位相は「闘う獅子」とイマージュされるのである.
このような中で,これまでのすべての価値は超えていかれるものである.もはやそこにあるのは,価値ではない.あるのはただ,解釈のみである.価値を放棄し,すべてを解釈とすること,それはデュオニソス的なものの肯定の一つである.
この種の相対主義は語れるものではなく,示されるものであろう.価値を解釈として超えること,それが力への意志の真理性を示すことになる.
しかし,ここで注目すべきであるのは,力とそれを求める意志の関係性である.この関係を明らかにすることによって,次の位相への手がかりを得られる.
一般的に,力を持つもの(=強者)は,力を求めない.強者は満ち足りているからである.一方で,弱者は本質的に力を求める生き物である.すると,力とその意志の奇妙な関係が開示される.すなわち,力への意志を持つものほど,弱者である,ということである.ゆえに,力への意志という世界観は,徹頭徹尾弱者的な,奴隷的な世界観である.弱者による,世界観の転倒.そのようなルサンチマン力への意志には隠れている.
デュオニソス的なものの真なる肯定のためには,やはり真理の不在を暴いた時と同じように,この位相を突き破ることで新たな位相へと至らなければならないであろう.

永劫回帰

永劫回帰.それは,ニーチェ哲学で最も特徴的なものである.生をそれとして肯定すること,デュオニソス的な肯定を与えるものである.
永劫回帰がもっとも端的に表れている部分を見ておこう.

最大の重し――もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえない孤独のなかに悪魔が忍び込みこう告げたとしたらどうか。
「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ。しかもすべてが同じ順序と脈絡において(中略)と」――おまえは身を投げ出し、歯ぎしりして、その悪魔を呪うのではないか。それとも、おまえは突如としてとてつもない瞬間を体験し、「あなたは神だ、私はかつて一度もこれほど神々しいことを聞いたことがない!」と答えるであろうか。もし生の回帰という考えが、お前を圧倒したとすれば、それは現在のおまえを変えてしまい、砕きつぶしてしまうかもしれない。何事につけても「おまえはもう一度、いやそれどころかさらに無限回、それを欲するするか」という問いが最大の重しとなっておまえのうえにのしかかるだろう!そうはならずに、生の回帰というその究極的で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。(悦ばしき知識)

死後の世界などというものはなく,また寸分たがわぬ在り方で,人生が無限に繰り返されるということである.このことに対する反応は,最大の重し,つまり呪いとしてとらえるか,そうあってほしいと願うかのどちらかである.もちろん推奨されるのは後者の在り方である.人生の偶然性が永劫回帰を通して必然でもあるということ.そしてそのような偶然かつ必然な生の在り方をいとおしむこと.そのような在り方こそ,ニーチェが推奨するものである.もはや,この位相において,生のその在り方を超越的な外部から評価したりすることはできないだろう.すなわち,人生は“ただそうであった”ということそれ自体が意味を持つのである.無意味からの意味の産出.必然的な人生は,弱者にとっては忌むべき,無意味なものである.だが,それが偶然かつ必然であるということで価値が,意味が自然に見いだされるのである.どんな人間の人生,たとえそれが犯罪者でも英雄であっても,等しくそのような人生であったことそのものに意味があるのだ.それゆえ,永劫回帰は同じ人生が無限に繰り返されてもいいような生き方をしよう,などというくだらないことをいっているのではない.そのような人生の選択肢などそもそも存在しえないのである.これは,驚くべき思想である.悪人も善人もこの位相では,すべてが等しく同じ人生の意味を持つ.どのような悪事も大きな歓喜をもって受け入れるのである.

『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である…何であれ何らかの意味で有害で破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう(1888 14[153])

しかし,やはりこの永劫回帰力への意志という位相にいる人が肯定することは難しい.永劫回帰は最初超えられるべき試練なのである.(事実,ニーチェにとってもそうであった.)永劫回帰を受け入れることは,転がせない石を動かす意思の,過去への復讐意志の否定である.過去を「こうあるべきであった」,「こうするべきであった」と復讐の対象とすること,この復讐意志を永劫回帰は封印する.どのようにしてか.それは「私はそう欲した」と意志を過去と重ね合わせることではない.このような在り方での復讐意志の封印はルサンチマンであろう.過去を自己の意志に従わせようとすること,それは力への意志に他ならない.ここに至ってなお,我々は力への意志の位相から脱せていないのである.
永劫回帰の位相へと我々を駆動させるものは,「遊ぶ子供」や「芸術」とイマージュされる,意志の否定である.すべては力への意志ではない,いや,意志こそが不在なのである.

出来事は,引き起こされたものでもなければ,引き起こすものでもない.原因とは,作用する能力だが,出来事に付加されるべく捏造されたものである(1888 14[98])

こうして,世界を解釈する原因としての力への意志の不在が宣告される.それはすなわち,「ただそうであった」ということを手放しに認めるということである.物事の背後には,超越的な何かがあるのではない,「ただそうである」それだけなのである.このような永劫回帰のもとでは,すべてのものが肯定されざるを得ない.永劫回帰とは,デュオニソス的な聖なる肯定であり,運命を愛するということ,運命愛なのである.

自由になった精神は,歓びにあふれ,信頼している宿命論を携えて,ただ個別的なものだけが非難されるべきなのであって,全体としてはすべてが救済され,肯定されているという信仰をいだきつつ,万有の中に立つ――彼はもはや否定しない。……だが,このような信仰はあらゆる信仰のうちでも最高のものだ。私はそれにデュオニソスの名を与えた(「偶像」「反時代的人間」49)

生成が一つの大きな円環をなしているとすれば,どんなものも等しく価値があり,永遠的であり,必然的である……
肯定と否定,好きと嫌い,愛と憎,といったすべての相互関係のなかには,ただある特定の生のパースペクティブと利害関心が表明されているにすぎない.それ自体としては,存在するすべては「これでよい」と語っている.(1888 14[31])

夜の二重性

「さくら、もゆ。」を永劫回帰のイマージュとしてとらえていく.
作品中では,夜の世界は太陽の時間,つまり現実世界とは異なった位相として描かれてゆく.もちろんここでの夜は日常世界における「夜」とは全く別のものである.「夜」は太陽の時間に対して単なる物理的な裏側である.そこにおいて,太陽の時間と本質的な差異は見出しえない.だが,夜は違う.現実世界とは全く異なる位相として存在している.このことこそが夜を分析していくうえで重要になっていくだろう.また,夜に関してもそれ自身が持つ二重の意味の持ち方にも注目せねばならない.夢や死といった夜の位相と子供という夜の位相が互いにパラドキシカルな形で補い合う形で存在していること,それは物語において大きな意味を持っているはずである.

前置きはこのあたりにしておき,まずは夜の存在様態から見ていく.夜は先に述べたように,現在我々が生きる場所とは本質的な差異がある場所として描かれてゆく.

太陽が眠りにつき.満月が微笑むその時刻….この町の裏側に訪れる,もう一つの夜――“夜の国”(「さくら、もゆ。」)

“夜の国”は夢の舞台だ.生者にとっては“夢”を見るための劇場なのだ.舞や猫たちが大きな“夢”の演目を用意している.(「さくら、もゆ。」)

「ここは,“夜の国”.すべての願いが叶えられる国
君らの時間でも太陽が傾けば夜が来る.そうだな?太陽が沈み,月が目覚める――瞬く間に静かな闇が辺りを染める
そうすればここも,もうひとつの“夜”も,君らの町の裏側に……同時に目覚める」
それは,その“特別”な時間は,この町で眠るすべての人々の心に,いつも隣り合わせでつながっており……(「さくら、もゆ。」)

夜の現実世界との差異は,すべてを叶えるということである.

そして“夜の国”の一番の特徴はというと……。
「もうひとつの“夜”の中では,肉体を持ち込むことができた者に限り――
頭で,心で,思い描いたすべての光景が形となって現れる.そういう性質を持つ刻の中に,“ゆめのねどこ”はある.」
ここはすべてが叶う不思議の国だ.(中略)それはまるで,明晰夢.毎夜見る夢の光景を自在に,思うまま,操作できてしまえる感覚に良くよく似ている.(「さくら、もゆ。」)

「現実世界はあんまりにも厳しくて…….心の中の地獄に飼い殺されるかのような苦しい時間の連続だ
だからせめて眠るときだけは,いつでも,どんなときでも,安らかでいてほしい…….愛おしく想う誰かと過ごせるような,そんな時間であってほしい」
女の子はここをそんな“国”にしようと,“夜”の中でいつまでも夢見ていたという――そういった女の子の“想像”(祈り)が,きらきら眩しい“夜”を作った.(「さくら、もゆ。」)

このような夜の様態に対して,夜は夢や明晰夢といったイマージュを与えられる.このイマージュに重なり合うようにして,夜は死者の時間としても描かれる.

“夜”…….
“夜の国”
ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある.終わってしまった命あるものは,この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった.(「さくら、もゆ。」)

そして,夢というイマージュと死の時間としての夜が次の言葉によって接続される.

「……“眠ることは死者の世界に生きることである”」(「さくら、もゆ。」)

夢を見るということと死後を生きるということが同じであるというのはどういうことなのだろうか.それには,両者が持っている類似する側面が関係している.
夢の世界では,現実では起こりえないこと,起こらなかったことを叶えられる.それは,転がせない石を転がそうとすることではないだろうか.またそれは,より良いものを求めるという力への意志ではないだろうか.
永劫回帰の部分でも同じことを述べたが,死後の世界を想定すること,そこには超越的な立場に立つことによって今ある生を断罪するという強いルサンチマンが介在している.次の生がこうあってほしいと願うことも一つの力への意志としてとらえられる.
すなわち,夜はその一面として力への意志のイマージュである.しかし,それは一面に過ぎず,たしかに乗り越えられていくものである.

力への意志のイマージュとしての夜を破り永劫回帰の場としての夜に至るための第一歩は,子供だけが夜に出入りできるという事実である.

「でも“夜”には“女王”が鍵を掛けてしまっている.どんなに強引な方法を試そうと,大人たちが生身を持って“夜”に這入ることはできなくて…」(「さくら、もゆ。」)

夜とは,子供の場である.そこに大人の場所はない.人は大人になるにしたがって理性を身に着けてゆく.つまり大人はアポロン的な存在者なのである.大人は大人ゆえに叶えられないことを知っている.だからこそ,大人にとっての夜は徹底的に夢や死者の場でしかありえないのである.理性的であるがゆえに,叶えられないこと,転がせない石を,夢という形で叶え,転がそうとする.大人からすれば,夜はルサンチマンの場でしかありえないのである.それは,永遠の命を“夜に求める”大人たちという形で描かれている.

……私,柊ハルが産まれたのは,大昔から続く芸術家の血筋だ.(中略)しかしそれはあくまでも表の顔だと,おじさんは言う.裏では,何かしらの芸術の“才能”を持って産まれてこなかった子らを,暗い部屋に閉じ込めて――“怪物”たちの餌にしていたのだという.その見返りに,“不思議の国”(夜の国)を管理する“怪物”たちから,“永遠の命”を授けられるのだと,私の先祖たちは信じていた……らしい.(「さくら、もゆ。」)

しかし,子供は違う.子供にとってはすべては叶えられるものなのである.子供にとっての夢は大人からみれば叶うことはあり得ないようなことであることが多々ある.子供は無垢,純粋であり,そこにルサンチマンや意志はない.ただそうであることを歓び受け入れる,そのようなデュオニソス的な在り方こそが子供なのである.子供は無垢であり,聖なる肯定である.それゆえ,ニーチェ永劫回帰を「遊ぶ子供」というイマージュに託したのである.つまり,夜という場所は遊ぶ子供の場,永劫回帰を与える場でもあるのである.だからこそ,ましろは,女王は,夜に大人が入れないものとして鍵を掛けたのではないか.それは,復讐意志を封印し,まっさらなものとして生を歓び受け入れることに他ならない.真っ白であること,それはルサンチマンにとらわれない肯定の形式である.真っ白であるから,すべてのものを描ける,そのような在り方は今ある生を無条件に肯定する永劫回帰の在り方と重なり合わさっていく.

――だけど,すべての願いが叶う場所.いや,すべての願望が形となる場所.(「さくら、もゆ。」)

すべてが叶うからこそ,そこにルサンチマンや意志が介在する余地はない.あるのはただ,すべてのものに対するデュオニソス的な肯定である.子供の場としての夜はどこまでも否定のない肯定の場として描かれてゆく.

……“夜”に属するものは誰にでも“役割”がある.無駄なものなどいないのだ.無価値なものなどここにはいないのだ.ナナちゃんは囁くようにそう言う.(「さくら、もゆ。」)

夜が永劫回帰を与える場であるということは,「さくら、もゆ。」における芸術の描かれ方からもうかがえる.
ニーチェにとって芸術とは,デュオニソス的なものである.

すべての芸術家ではない人々が,「形式」と呼ぶものを,内容と,つまり「事柄それ自体」と感じた時,人は芸術家となる.このことによって,その人はもちろん転倒した世界に住むことになる.なぜなら,その人にとって,内容が単に形式的なものになるからだ――われわれの人生も含めて(1888 14[47])

芸術は本質的に現にあるものの肯定,祝福,神化である(1888 14[47])

そして,作品中で芸術はやはり,夜へアクセスするためのものとして描かれている.

夜のパラドクス

夜は遊ぶ子供のイマージュや芸術との連関において,やはり,永劫回帰の場として機能している.夜はこのように力への意志という面と永劫回帰の面が表裏のように張り付けられている.「あの世(月)とこの世(太陽)の中間点」という表現が示すように,言えば“膜”のようなものなのである.ルサンチマンを捨て,力への意志という位相から永劫回帰へと至るための第一段階のような場,それが夜に与えられた役割ともいえる.このような夜の表裏一体の形が最もよく表れているのが,次のような一見永劫回帰と異なるような作品中での生の取り扱いではないだろうか.

「もしも人生,やり直せるなら――
さっき姫織がそう言っていたよね
もしも,だなんてことはないんだよ.あなたたちの人生は……命はきっと,幾らでも,何度でも,やり直しがきくものなんじゃないかな」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

「死んだ人間の命はそこで終わりにはならないんだって話だよ
この世界で命尽きるということは,また別の世界に生まれ直すということなんだ――……ほら,さっきの光.あの列車だよ」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

作品中においては,人の命について明確に来世というものを規定している.これは永劫回帰の無限に繰り返される一回きりの生というものに反しているのではないか.そして,それは来世によって今ある生を断罪する危険なルサンチマンなのではないか.いや,そうではない.その人の生はそれっきりで,また無限に繰り返されていくのである.

「そんなふうにして,それぞれの“役割”を見つけるために,あなた達は何度も何度も生きることをやり直すのかもしれないなって私は思ってるよ――……だけどね」
「うん,いくら命は不滅なものなのだとしても.すべての命は,終わることなくぐるぐる巡るのだとしても……
だけど,今の“あなた”という命の形は今回きりなんだよ.あなたが夜月姫織でいられるのは,この星での制限時間が尽きるまでの間でしかない」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

その人の生は,たった一回きりのものである.命は廻っていく.しかし,“私”の生は一度しか起こり得ない.そして,その生は夜という時間の中で無限に永遠と繰り返されてゆく.

“夜の国”とは時間の墓場のような場所でもある.誰かがそう語ってた.
過ぎ去り終わってしまった時間もまた,時間という空間そのものを記録媒体のようにして,永遠と“夜”に記録されているのだという.(「さくら、もゆ。」クロ)

今日が四月一日だったとする.
すると,過去,あるいは未来の四月一日に起こる出来事のすべてが,その記憶が,“夜”の“参禅町”を彩っている.(「さくら、もゆ。」クロ)

起こったこと,あるいは起こっていくことすべてが夜の時間の中で無限に再生され続ける.このような時間の図書館としての夜の役割は,これはましろが付け加えたものだが,永劫回帰の在り方としてふさわしいのではないだろうか.また,作品中での時間世界というものの描写もそれに呼応している.少し長くなるが,一回性というものを最もよく表している部分を引用しよう.

「“パラレルワールド”.今,ここの世界と,それはどこかよく似ていて,しかしどこか確実に違ってしまっている,もう一つの世界
それはほんの些細なことでいくらでも生まれ,まるで際限もないかのように広がっていく.たとえば――(中略)たったそれだけのことでも,ほら,世界はふたつ,いや,みっつも,出来上がる
この世界はまさにカオスだよ.理論も法則も想いも言葉も減少も,すべて入り乱れては絡まり合って,ひとつの舞台を成している――
そして,そのようにして,世界は,今を生きている命のその心の数だけ……何十,何百,何千と,――この瞬間にも際限なく増え続けていっていることになる.あくまでも,理屈としてはね(中略)
問題なのは…….その“拳銃”では,既に決定してしまった“未来”は変えられない.それが,それこそが,大問題なんだよ.そこにこそあなたの覚悟は試される.」(「さくら、もゆ。」柊ハル)

夜を通して過去への復讐を貫徹したとしよう.しかし,それを行った自己と元を生きている自己は全くの別人なのである.世界は常に一度きりであるし,出来事はすべて必然かつ偶然に起こる.そのような時間の在り方は何人たりとも変えられない.それがこのナナちゃんの発言を通して開示される.世界がパラレルに分岐していったとしてもそれを生きる“私”たちは各々別人なのである.このような時間の在り方は直線というイマージュを割り当てられるのではないか.そしてそれは,ドゥルーズが語る第三の時間,アイオーンにクロスしていくのではないだろうか.一本の直線という時間の在り方は,鉄道,機関車というイマージュによって語られるナナちゃんの在り方とも連関を持つだろう.そして機械=機関車というイマージュが死の世界でもある夜の世界に存在しているということは,死の本能を巡るドゥルーズのゾラ論へ,そして欲望機械へとつながっていくのではないだろうか.ドゥルーズの哲学から「さくら、もゆ。」を見るということも今後なされるべき課題であろう.話が少しそれてしまった.本題に戻ろう.パラレルな生の他人性はほかの場面でも描かれている.

確かに君は柊ハルを撃ち抜いた.でもそれは,君であって君ではない.(「さくら、もゆ。」クロ)

「柊ハルと生きた人生.杏藤千和と生きた人生.夜月姫織と生きた人生.……クロがその命をかけ,君に送った幸せな時間だ
今,ここにいる君とは違う時間世界の中を生きた自分自身.その“想い”までをも全部,ここには記録されている(中略)
君が奏大雅として生きたことで,あらゆる時間世界の人たちは.その人生にハッピーエンドを手に入れられた
今も,この瞬間もだ.幸福であろうその時間は続いている.この“夜”の世界に決してなくなることなく,記録されていっている」(「さくら、もゆ。」クロ)

このテクストからわかることは,生は生きている当人にとっては,分岐しているように見えるかもしれないがそれは正確ではないということである.分岐する世界としてみるのであればその世界を生きる“私”は同一である.しかしそうではない.分岐している時間世界を生きる生は今を生きる“私”とは別である.分岐されたかのように見える世界は存在し,その世界は永劫回帰として,無限に繰り返されてゆく.だから,奏大雅が死んで過去へ戻ったとき,すでにそれは元の奏大雅のように見えてそうではない.「“人生にリセットは利かない”」のである.

闘う獅子から遊ぶ子供へ

さて,夜はこれまで述べてきたように,力への意志永劫回帰をつなぐ薄膜のような存在ととらえられるのであった.夜のこのパラドキシカルな存在様態はそうすれば納得できるだろう.力への意志にせよ,永劫回帰にせよ生きるのは“人”である.夜は所詮イマージュでしかない.そこで,奏大雅やその他のヒロインの生き方を見てみよう.そこでは,駱駝から獅子へ,そして夜を契機にして,獅子から子供へと至る生の軌跡が描かれてゆく.

そうして私は,お母さんの作ってくれた人形を依り代にし,お母さんの“心臓”(命)をもらい,存在を得て――“太陽の時間”(現実世界)の中に産まれ直したのだ.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

ソルの時間はとっくに尽きてる.故に.この“夜”に産まれ直すようなことはない――彼との“さよなら”は本当の“終わり”なのだ.(中略)
「……私が,ソルにとっての死神,だったんだ」(「さくら、もゆ。」杏藤千和

おじさんは.この世界でたったひとりの私の味方は.……味方でいてほしいと願う,その人は.もう二度と,誰の問いかけには応えない.(「さくら、もゆ。」柊ハル)

「ぼくなんて生まれてこなければよかった――あの子がそう感じてしまう原因を,わたしが,作ったんだ.あの子のお母さんの心を,わたし達が壊したんだよ」(「さくら、もゆ。」クロ)

しかしそうした“代償”の末に救われたはずの男の子は,何も,何ひとつ,救われないまま,再び地下牢に閉じ込められている.
自分のせいで大切なひと達全員,二度と帰らぬ人となってしまった.そういうふうに,自分をずっと責め続けた.(「さくら、もゆ。」クロ)

ここにある,自己にはどうしようもないものをいわば原罪のように背負わされてしまっているような生の在り方.それはニーチェが駱駝のイマージュに乗せて描いたキリスト教的な生の在り方そのものではないだろうか.そして,このような原罪は過去への復讐意志という力への意志と絡まり合うことで,闘争する獅子として描かれる第二の生の位相へと変容させられていく.その力への意志は自身の原罪を償う究極の形として,死を求めるという形で現れる.

大切な命を取り戻すんだ.それが私の“夢”だった.“夜”の中で何かを得るなら,同様の価値ある“何か”を差し出さなければならない.それが“夜”のルールだ.(中略)私の“心臓”(命)はもう既に“夜”の底…….“後悔”はない.“命”を無駄にしたわけではない.自分の“夢”を叶えるのだから,自分の“命”をもやさずしてどうするというのか.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

「お願い.なんだってする.どんなことだってがまんする.私の全部を,あげるから.だから……お願い.お願いします」
どうか,神さま,ナハトに大切なお友だちを返してあげて…….(「さくら、もゆ。」杏藤千和

「おじさん……
私たちは,出会わなければよかった」
“大切な人に起こる未来の不幸を肩代わりすること”
それが,幼いハルの願った“魔法”だった.(「さくら、もゆ。」柊ハル)

「……わたしなんて,生まれてこなければ,よかった」
そうだ.大雅…….ねえ,大雅.わたしたちは,出会わなければよかったんだよ.(「さくら、もゆ。」クロ)

――この命そのものが疫病神だ.
――周りの人たちを.
――何よりも大切だと想うすべての人たちを.
――ぼくは手当たり次第に不幸にしてしまう.
――この命は,この存在は,そういうふうにできてしまっている.
――だから死にたい.最大最悪の罰を受けてから,死んでしまいたい.(「さくら、もゆ。」共通)

ここで描かれている願い,夢はすべて自己を,駱駝としての“私”を供物として捧げることで,背負わされた原罪を償おうとするものである.力への意志の空間である夜の時間を媒介にすることで,もはや転がせない石となってしまった過去を,自罰という形で転がそうとする.そのような危険な意志が顔を覗かせている.自己の生の否定,それはニヒリズムの一つの形式である.目指すところはニヒリズムの克服であるが,それはニヒリズムを否定するという形ではない.それは強者にのみなせるやり方である.弱者のための,力なき人のための物語であるならば,それは力の思想としてニヒリズムを超えるのではない,逆にニヒリズムを徹底することでニヒリズムへと至らねばならない.それは,無価値から価値が生産されること,無意味から意味が生まれ出ること,である.すべてが無意味であった“私”の生が,“永劫回帰の空間である夜”を通じて(それは夜の持つ二重意味性によって永劫回帰とパラドキシカルな経路をたどってゆくだろう),意味を持ち,ただそれだけで苦難や失敗すらもまぶしく光輝いて見える.そのような力への意志の空間である六番目の空間,正午の時間を過ぎた,もはや太陽すら存在しない永劫回帰の七番目の時間,バタイユの描く非-知の夜に至るのである.

私が夜と名付けているものは,思考の闇とは違う.この夜は光の激しさを持っている./夜は,それ自体,思考の青春であり陶酔であるのだ.(「有罪者」)

非-知は裸形にする.
この命題は頂点である.だがそれは次のように理解されねばならない.裸形にする,それだからそのときまで知が隠していたものを私は見る,けれども見るならば私は知るのである.実際私は知り,だが私の知ったものを非-知は再び裸形にする.言い換えれば,無意味が意味になっても,この無意味という意味は消え去って,再び無意味になる(この繰り返しは可能な限り続く)ということである.(「内的体験」)

いかなる矛盾するものもそこに共にありそれが交差していく場,非-知の夜.そのような在り方が力なきものの英雄譚としてふさわしいのではないか.そして,それこそが作品の中で描かれてゆくのではないか.
生をデュオニソス的に肯定すること,すなわち,永劫回帰を受け入れることに対して重要なステップは恋である.一つの生の出来事について肯定することで,意志に反して生そのもの肯定しようとすること,それ自身も強い力への意志である.ゆえに,そのような仕方で生を肯定することはあってはならない.おのずと自己の生を輝かしく愛しいものとして肯定し受け入れること,それが重要なのである.そして,それに最も近いものとして恋が描かれてゆくのではないだろうか.それはニーチェのルー・ザロメとの恋愛体験とパラレルな在り方ではないだろうか(もっとも,こちらは悲哀に終わってしまうのだが).

人生のなかばにして.――否!人生は私を失望させなかった!それどころか,歳を重ねるにつれて,人生はいっそう豊かな,いっそう望ましい,いっそう神秘に満ちたものと感じられてくる.――人生は認識者にとっての一つの,実験であるといってよい――義務でも,宿命でも,虚妄でもなく――というあの思想,あの偉大な解放者が私を襲ったあの日以来!(中略)「人生は認識のための手段」――この原則を胸に抱くことによって,われわれはただ勇敢になれるだけではなく,悦ばしく生き,悦ばしく笑うこともできる!(「悦ばしき知識」324)

「さくら、もゆ。」の中でも,恋は生の肯定の重大なポイントとして描かれている.それは,恋する人と,好きな人と生きること.その人生での苦難は意味があり手放しに受け入れ肯定されるものである.そのような恋を駆動力にした,永劫回帰の受け入れ.それが,力なきものへ送るニヒリズムの徹底としての物語である.恋を通して我々は気付くのである.この生は必然的な無意味であるからこそ,この人と出会うことができた,この人生には意味があった,と.無意味で暗い真っ白なこれまでの人生が,恋という太陽をその内部に抱くことで,真っ白の人生がそれ自体として輝きだす.そこには,過去への復讐という太陽は既に存在しない.

大切な人と手を繋いで,一緒に帰ろう.そうすることができるだけで充分だ.充分以上に,幸せだ.今日も.明日も……これからも.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

「ひとつ,悲しかったり大変なことだったりを乗り越えても,また次の何かが待っている.ここは,そんなふうにして進む時間の中なんだろうと思うけど……でも」(中略)
「うん,でもきっと,きとおね.何があっても大丈夫だよね
あなたと一緒に……,これからも一緒に,この命を大切に,大切に,生きていきたい」(中略)「だからきっと,何事もない“今”が幸せ.そうだよね?」(「さくら、もゆ。」杏藤千和

友人だったり.恋人であったり.家族であっても.俺たちの短い人生において,奇跡的に関わり合えたひと達と永遠に歩んでいけるわけではない.いつか,そのひと達と歩んだ時間とはさよならをして.また次の時間を見つけ,何とか折り合いを付け,寄り添いあって…….俺たちはそういう風に繰り返し,いくつもの終わりに向かい歩いて行くしかないイキモノだから.(中略)ここから先は,ふたり一緒の最高の人生が待っている.そんな予感ばかりが花咲き,止むことはなかった.(「さくら、もゆ。」柊ハル)

「こうして大雅に抱きしめられたら……不思議だよ.今までのさみしいことも.今もまだ,胸がずきずき痛いのも.全部.幸せな思い出になってくれるんじゃないかって,思えるよ」(「さくら、もゆ。」クロ)

どの時間世界も,永劫回帰を受け入れた先の生として解釈してもよいだろう.そこで語られていることは,力への意志として何かを目指していくものではない,ただ目の前にあるものとして生を肯定し生きていくことである. 夜の時間というパラドキシカルな場を媒介とし,恋という契機を利用し生を受け入れるということ.過去や人が変わる以上,それは同じ形式をとらないが,各ルートでなされていることはそれに他ならない.
月姫織は,夜の中でナナちゃんから母親のことを聞くことで.杏藤千和は,ナハトとソルという“夜の怪物”を通して,柊ハルは,夜の中で母親と話すことで,クロは,夜の繰り返される時間の中で奏大雅へ“勇気”や“希望”を与えられたことで,そして奏大雅は,クロを通して.
夜の時間の存在意義はそこにこそあるのではないだろうか.自身が含むパラドックスによって,力への意志の空間と永劫回帰の空間を相互作用させられること.そして,それによって永劫回帰としての生を歩ませるということ.それこそが夜の時間が果たす機能なのである.だから,クロルートでは“奏大雅”が交わりえぬ時間世界を移動したということが起きているのである.この直線としての時間世界では決して起こりえない結果は,力への意志の空間としての夜のみがなせることである.それは,永劫回帰の空間では起こりえなかっただろう.力への意志永劫回帰の両者はどこまでいっても混じりあうことはない,ゆえに夜の時間は永遠にその二面性を持ちうる場である.だからこそ,夜の時間という薄膜を突き破ることで人は永劫回帰の位相へと至ることができるのである.そうして,ニヒリズムの極限として得られた,光り輝く人生.それが「さくら、もゆ。」の終着点である.

永劫回帰を廻って

ここまで,「さくら、もゆ。」の世界を介して永劫回帰を語ってきた.しかし,生の中を生きる人にとって永劫回帰とは,語りえぬものなのではないだろうか.永劫回帰は主張として無意味なのではないだろうか.答えはYesである.永劫回帰は主張として語り得るものではない.本来この種の思想は語ることはできないし,語られることもないだろう.永劫回帰を生きる生は“ただそうである”という点において,語ることもないし,力への意志を生きる生は語ることはできない.そういうものなのである.しかし,「さくら、もゆ。」の中で力への意志の空間を飛び出し永劫回帰の空間へと至る一つの生=物語を描き切ることで,永劫回帰の生を示し得たのである.この「さくら、もゆ。」という物語の真価はそこにこそある.力なきものを救う最大の聖なる,デュオニソス的な,肯定.運命愛.それが「さくら、もゆ。」という物語である.いや,むしろこうイマージュするべきであろう.「おまえの内なるなんらかの神」と.
それでは,もはや語れるものではなくなった永劫回帰とはなんなのだろうか.そう.永劫回帰は祈りなのである.「ああ,この人生よ.願わくば,無限に繰り返されておくれ」.“私”の生とこの世界に対する内側からの祝福,それが永劫回帰なのである.

だが,これが――私の趣味である.――よい趣味でも悪い趣味でもなく,私の趣味である.私は,私の趣味をもはや恥とせず,ましてや秘めることはない.私に「道」を尋ねたものにはこう答えた.「これが――私の道だ,――きみたちの道はどこか?」と.万人向きの道など,存在しないからだ.(「ツァラトゥストラはかく語りき」「重力の精」2)

最後に永劫回帰の祈りを最も“示している”作中の部分を引用して締めくくろう.

「これは君の人生だ.これは,君だけの物語なんだよ.だから俺じゃあ救えなかった.どころか,立ち向かうことさえ困難だった――
――だからこの物語は君にしか乗り越えられない.君にしか,この“絶望”は倒すことはできないんだ
なぜなら,君の“人生”(物語)を救うことができる唯一のヒーローは,いつだって,自分自身だからだ」(「さくら、もゆ。」クロ)

参考文献
「これがニーチェだ」,講談社現代新書永井均
ニーチェ入門」,ちくま新書竹田青嗣
バタイユ入門」,ちくま新書酒井健
「瞬間と永遠:ジル・ドゥルーズの時間論」,岩波書店檜垣立哉
ドゥルーズ入門」,ちくま新書檜垣立哉