MiyanTarumi’s blog

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感想とか色々。数物系は書くか微妙。。。

「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」のシステム論①

はじめに

“夜”の時間.「さくら、もゆ。」が示すその時間は,物語の大部分を占めている.いや,むしろこう言うべきかもしれない.「さくら、もゆ。」は“夜”を巡る物語である,と.実存の在り方をとらえることで,「さくら、もゆ。」は永劫回帰の祈りの位相を持つことは既に話した.しかし,そのような一面的な物語なのだろうか.まだ捉えきれていない位相,面があるのではないだろうか.固定された構造を,逆に生成の場としてみること.そうすることで「さくら、もゆ。」の持つ新たな位相が見えてくるのではないだろうか.

前回→

miyantarumi.hatenablog.com

 

時間論としての「さくら、もゆ。」

ここでは,「さくら、もゆ。」の”夜”について時間論的な目線から読み解いていきたい.

生ける現在-太陽の時間-

生きる現在,太陽の時間は,今まさに我々が感じている時間であると考えていい.それは,我々が何かを行うときにそれによって立たなければならない時間である.例えばこんな光景を考えてみよう.目の前にリンゴが一つある.それを見て私やあなたはこう思うかもしれない.「なぜこんなところにリンゴが?」あるいは,「あ.リンゴがある.おいしいかな?」と.何を思うかはその人次第であるけれど,何を思うにせよ,私たちは“今”という起点抜きにその思考をすることは不可能であろう.いわば今を生きる私の基盤,大地になるような時間.それが生きる現在,太陽の時間である.それが「さくら、もゆ。」の中で明確に語られているわけではないが,“夜”との対比として与えられる通常の時間であるから,そう考えてよいだろう.

 

「とにかく“夜”じゃないほう.“太陽の時間”の中で,いったい何があってそうなったのかは,わからないけど……」(「さくら、もゆ。」)

 

このような,生きる現在として与えられる太陽の時間は,ベルクソンドゥルーズが「差異と反復」で述べている,「第一の時間」として考えていいだろう.

 

第一の時間は「生ける現在」における時間の総合を扱う現在論である.そこではハビトゥス=習慣的なものの成立が能動的な総合の「土台(foundation)」として論じられる.(「瞬間と永遠」)

 

この領域は,“今”に依拠することで,同一性を基準とするヒエラルキー的な空間である.その内では,同一性からの距離という形で評価され続ける.このような同一性の在り方は前に話したニーチェの話と関わりを持ってくる.

ただし,生きる“今”というものはある一点として与えられるものではないのではないだろうか.それは本当は“流れ”のようなものなのではないだろうか.このことを詳しく見るために,音楽になぞらえて時間を見てみる.音楽,あるいはある曲は,点としての音の集まりではない.それは合成音声のもつある種の不自然さが示しているとおりである.可能な限り小さく区切った音声を繋げたとしても,やはり私たちが聞くとどこか不自然さが残るものになってしまう.この不自然さが時間ひいては存在のもつ新しい位相を開示する.合成音声の例からわかることは,音は不連続なものの集まりではなく,抑揚や発音といった要素が存在する連続的なものである,ということである.曲を短い要素に分割し,それを再びつなぎ合わせたとしてもそれは元の曲にはならないだろう.分割という行動を通して私たちは既に連続的な要素を捨ててしまっている.すなわち,この分割という操作は不可逆である.そこで,不連続なものの集まりではない,このような連続性を「潜在性」(virtualitè)とベルクソンドゥルーズは呼ぶ.そして分割され,不連続になった存在様態を「現在化」(actual)と呼び区別する.現在化されてはいないが,実在している(rèel)もの,それが潜在的なものである.そのような潜在的なものは,現実化されたものをその実在性で支えるものと見てもよいだろう.では,時間に対してもこのような議論が当てはまるのではないだろうか(またそれはもっと裾野を広げて個物存在に対しても当てはまるのではないだろうか).

 

第二の時間-停滞した”夜”-

このような時間の連続性に関する議論から得られる生きる現在に対してのもう一つの時間.それは生ける“今”を潜在的であるが,実在しているという意味で現在を支える時間である.時間は連続的であって点であるわけではない.そのような“流れ”としての時間について考えてみよう.

潜在的な時間の“流れ”.そこにおいて時間は,その連続的な在り方から“今”という定点を持つことなく無限の過去へと結びついていく.“今”を先端とし,無限に広がっていく,基盤としての時間.第二の時間として語られるそのような時間においては,“今”は特別なものではない.それは,過去の一つの断片という意味しか持ちえない.過去の差異をその無限性として含んでいること.それは生ける現在での習慣化を土台として支えていくものである.そのような時間はベルクソンドゥルーズが,「純粋記憶」あるいは「第二の時間」として呼ぶものである.潜在的な時間のその潜在性が際立って現れるのが記憶に関するベルクソンドゥルーズ議論である.現在にいる私たちは記憶についてどのように考えるだろうか.単純に考えれば,記憶,あるいは過去とは私の“今”の集合である.私が生きる“今”ここにある時間がそのまま積み重なったもの,それが記憶に対する一番簡単な見方である.しかし,私の“今”の集合体であるならば,私の生を超えた範囲にある時間に対してはどう説明するべきなのだろうか.私たちは,生きていない生より前の時間を体験していないが,しかし確かにあるものとして知っている.親がいてそのまた親がいてということを私たちは無意識に知っている.あるいは,このような例でもいいだろう.スペインのサグラダファミリア.その建設にかかわる人は,自分たちが体験していない,しえない時間を無意識的に見据えて建設を行っている.どちらの例にせよ,私たちはつながれた記憶としてそれを体験していないけれども,“知っている”のである.このような“知っている”ということは,記憶に関して一つのことを教えてくれる.つまり,記憶は“今”の積み重ねではなく,連続的な,潜在的なものでなければならないということである.それをベルクソンドゥルーズは「純粋記憶」と呼ぶ.第二の時間あるいは純粋記憶と指されるものは,いうなれば“過去”のことだと考えればよい.しかし,ここでいう“過去”とは現在からみた時間としての「過去」ではない.“過去”とは定点なき時間の流れとしての“過去”のことである.この議論は記憶の立ち上がり方に一見すると奇妙な結論を導き出す.もし記憶が“今”が過ぎ去ったものの二次的な構築物であるならば,それは“今”,つまり生ける現在の類似物である.そこに存在論的な差異はなくなってしまう.しかしそれでは第二の時間と生ける現在との間には潜在的なものと現実化されたものという存在論的な差異があることに反してしまう.ゆえに,記憶は“今”の二次的構築物ではなく,記憶は現在と同時に現れ,そして記憶が優位であるように存在している.そしてその“過去”は一般性(=現実化)の度合いを様々にしながら“今”の成立と同時に繰り返される.これを「収縮」と呼ぶのだが,このような“過去”の収縮の度合いはベルクソンの示す,頂点を“現在”の平面と共有する逆向きの無限に伸びる三角錐で示される.この“今”と“過去”の無限の精神的な反復.それは円環と表現される

 

このようなベルクソンドゥルーズの語る第二の時間は,「さくら、もゆ。」では,“夜の国”とよばれているものに他ならない.“夜”. “夜”とは「時間の墓場」である.終わってしまった時間それは過去と言ってもよい.

 

“夜の国”とは時間の墓場のような場所でもある.誰かがそう語ってた.過ぎ去り終わってしまった時間もまた,時間という空間そのものを記憶媒体のようにして,永遠と“夜”に記録されているのだという.(「さくら、もゆ。」)

 

しかし,その過去としての「時間の墓場」は単なる太陽の時間の集積物という意味を持たない.それは,太陽の時間とは本質的に異なるものとして描かれてゆく.“夜”には,影――死者となり次の時間を選ばなかった者たち――が住んでいる.影は“記憶”を繰り返す.

 

これは,記憶だ.

いつか遠い時の中,この町であった出来事が繰り返し,繰り返し,ここに再生され続けている.(「さくら、もゆ。」)

 

「改めるけれど,そのときクロに,今日,このとき私たちが話したことを知らせたいんだ――“夜”の中に記録され続けているのだろう,私たちが話しているこのときを,クロに見せたい」(「さくら、もゆ。」クロ)

 

このような“夜”における記憶の繰り返し.それは,“今”とを無限に反復する第二の時間のイマージュではないだろうか.太陽の時間=現実とは異なる存在が記憶として反復され続けること,これは第二の時間が描く精神的反復と言っていい. そして,“夜”に巣食う“悪夢”を退けて人類を救ったということは,いわば“夜”の時間が太陽の時間を生きる人の根拠になっているといってもよい.

 

力を合わせ,“夜の国”で人々の心を食い荒らそうとしていた,過去最大にして最凶最悪の“悪夢”を退けて――(中略)

彼女らが関わることを余儀なくされた“人類滅亡を阻止するための物語”は,事実上ハッピーエンドということになったのだ.(「さくら、もゆ。」)

 

そういう純粋な時間ではない物語的な位相でも,第二の時間と“夜”は重なっていくようにも見える.

第三の時間-躍動する”夜”-

しかし,作品中では“夜”が再生し続けるものは「これまでにおこってしまったこと」のみに限られていない.そこには,「これから先におこること」も含まれている.つまり,“夜”は第二の時間―過去―とは全く異なる時間をそのうちに含んでいる.このことについてどのように考えるべきなのだろうか.“夜”が持つこの“未来”という時間が,ドゥルーズベルクソンの時間論にとっても重要な時間となっている.ひとまずこのことは置いておいて,ドゥルーズベルクソンの時間論の話をしよう.

 

さて,ここで考えてほしいのは,このままでは第二の時間によって与えられる時間は“現在”と“過去”とを永遠とループし続けてしまうということある.時間とは本来過去から未来へと流れていくものであろう.では,この無限の円環を打ち破り,先へ時を進めるものはなんなのか.そして,もう一つ重要な点が一つある.第二の時間は第一の時間の土台として必然的に要請されるものであった.しかし,このような根拠の根拠を求めることによって私たちは無限後退に陥ってしまう.つまり,どこかに脱根拠化される根拠があるのである.これはウィトゲンシュタインが色見本のケースで語っていることとパラレルと考えてもよいだろう.

 

われわれのパラドックスは,どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのだから,規則は行動の仕方を決定することができない,というものであった.そうして答えは,どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのであれば,矛盾させることもできるだろう,だからここには一致も矛盾もない,というものであった.

このように考えていくときには,われわれは次々と解釈を行っている――それぞれの解釈が,その背後にまたもや存在するさらにもう一つの解釈のことを考えつくまで,すくなくとも一瞬は,われわれを安心させるかのように――という事実だけからしても,ここに誤解があることは容易に見て取れる.というのは,実はこのことが示しているのは,解釈ではないような規則把握があって,その把握の仕方は,われわれが何を「規則に従っている」と言い,何を「規則に反している」と言うか,ということの内に,規則の適用のその都度,自ずと示される,ということだからである.

それにもかかわらず,規則に従った行動はそれぞれが規則の解釈である,と言いたくなる傾向がある.だが,規則の一つの表現を別の表現で置き換えることのみを「解釈」と呼ぶ方がよくはないか.(「哲学探究」201節)

 

ここでウィトゲンシュタインが語っていることは,言語ゲームのルールを考えるときに,そのルールが先んじて言語ゲームが成立するのではなく,言語ゲームが存在していることによってかろうじてそのルールが成立している,ということである.解釈とは行動とルールの関係を決めるルールのことである.行動とルールを解釈によって補うことは,解釈を決めるルールという形で,また新たなルールを誘発する.ゆえに,ルールの無限後退が起きてしまう.つまり,そうではないのである.どこかにルールによっては語りえないルールの使われ方が存在し,それがルールという根拠を見せるのである.このような「エーベン」としかいいえないような,脱根拠としての根拠.それが言語ゲームと呼ばれるものである.

無限に続く階段を止め,エーベンと宣言すること.本当に難しいのはそのようなことではないだろうか.そして,第二の時間に対してもそうあるべきではないだろうか.

第二の時間の無限の円環を解体し,その流れを先へと進める絶対的なもの.それは,決して経験され得ない,超越論的なものである.私たちはそれを語ることができない,ただ時間があることそれによってのみ条件として示されているものである.

第二の時間に続く第三の時間のこのような経験されないという意味で形式的で無根拠性をどのように取り出せばいいのだろうか.

また,他にも問題が残っている.第二の時間として述べた“過去”は円錐のその先端を現在の平面と共有していることにより,“今”に依拠したものとして語らざるを得ない.収縮の度合いによって相対化された“今”との潜在性や差異.そのような領域は,同一性の外部にありつつも同一性を外から支えていくものになってしまう.すなわち,第三の時間に対してもう一つ求められるもの.それは同一性の解体である.この同一性の解体,絶対的な差異のそれはニーチェ永劫回帰の思想で語ったことと接続されるだろう.この永劫回帰の時間が第三の時間を語っていくうえで重要なポイントの一つである.

これらを踏まえて第三の時間を考えるなら,それは直線となるだろう.時間の流れから来る,時間の絶対的な順序性.それは,無限へと延びていく一回きりのこの世界が示しているものに他ならない.そして,無限に伸びる直線に一つの定点はない.そこには,“今”に依拠することがない時間の位相がある.

 

「順序としての時間が「同」の円環を打ち砕き,時間をセリーに変えたのは,セリーの終わりに「他」の円環を再生成するためであった.順序の「一度きり(une fois pour toutes)」がそこにあるのは,秘教的な最後の円環の「その都度(toutes les fois)」のためである.(「差異と反復」(上)252)

 

“過去”は既に起こってしまったことという意味で差異を“含む”.そしてそこで収縮の度合いを様々にしながら反復し続けるものである.また,“今”はその差異を等化させる.では“未来”はどうなのだろうか.それは,時が進むという順序性によって他なる差異を招き入れ,“今”によって反復され続ける時間ではないだろうか.第三の時間とは“未来”の時間である.まだ見ぬ私たちの行動を一回きりの順序であることによって,絶対的な差異として反復へと導くもの.そのような“今”に依らない順序の無限の反復が第三の時間,“未来”である.そして,この一回性の反復,あるいは絶対的な差異は「永劫回帰における非定型なもの」(「差異と反復」(上)252)そのものであろう.ここにドゥルーズの時間論とニーチェ永劫回帰はつながる.第三の時間の反復は第一,第二の時間とは決定的に異なる.それは永劫回帰の示す反復であり,そこでは差異をヒエラルキー的に処理されることはない.差異それぞれが時間を生成するものとして取り出されていくのである.

 

時間を進める「賽の一振り」として第三の時間を取り出してきた.ここで「さくら、もゆ。」に話を戻そうと思う.“夜”に「これから先におこること」が含まれていることは既に話した.これは“夜”の第二の時間=“過去”というあり方とは決定的に異なるものである.「これから先におこること」を含んでいる“未来”は“現在”あるいは“過去”においての出来事とは全く異なる差異をその内に持っている.“夜”が持っているものはそれにとどまらない.その世界で選択されなかった可能性としての出来事すら“夜”には存在しているのである.

 

「更に言えばここは選ばれなかった時間の墓場でもあり,そうした可能性を,時間という形のないものそのものを記憶媒体とし,蓄積,保管する図書館のような場所でもある.」(「さくら、もゆ。」)

 

この意味で,“夜”は絶対的な差異を含み,そしてその“差異”を取り入れる時間である.そうして取り入れられる絶対的な差異は同一性を破壊し,ヒエラルキーなき砂漠をえがく.そこでは,同一性からの距離によって評価されることはない,“夜”に生きるすべての生への価値の配分である.

 

……“夜”に属するものは誰にでも“役割”がある.無駄なものなどいないのだ.無価値なものなどここにはいないのだ.ナナちゃんは囁くようにそう言う.(「さくら、もゆ。」)

 

このような価値の等配分は,「さくら、もゆ。」では,永劫回帰の祈りとして一回きりの生の肯定,あるいは自己の生の内部的な評価へとつながってゆく.つまり,“夜”が,第三の時間が含む絶対的な差異とは永劫回帰的な偶然性の肯定のことである.

 

偶然を廃棄するとは,偶然を,多くの賽子振りに基づく確率の規則によって粉砕することであり,しかも結果的に,問題を,そのときすでに仮定のなかで,つまり勝ちと負けに関する仮定のなかで解体し,また命令を,勝ちを規定する〈最善なものの選択の原理〉の関する仮定のなかで道徳化するということである.これとは反対に,賽の一振りとは,一回で偶然を肯定するのであり,賽の一振りのそれぞれが,その都度,偶然の全体を肯定するのである(「差異と反復」)

 

これは何も生の評価に関する問題ではない.これは時間あるいは個物に対する一般的な議論である.“夜”を通して語られている存在のそのようなあり方は,前は生の評価に関する側面として取り出したが,今言っているのはそうではなく,時間から個物にわたる存在の一般的なモデルである.

そして,この時間は常に順序的である.そのことは前に話したがもう一度引用しておこう.

 

「“パラレルワールド”.今,ここの世界と,それはどこかよく似ていて,しかしどこか確実に違ってしまっている,もう一つの世界

それはほんの些細なことでいくらでも生まれ,まるで際限もないかのように広がっていく.たとえば――(中略)たったそれだけのことでも,ほら,世界はふたつ,いや,みっつも,出来上がる

この世界はまさにカオスだよ.理論も法則も想いも言葉も減少も,すべて入り乱れては絡まり合って,ひとつの舞台を成している――

そして,そのようにして,世界は,今を生きている命のその心の数だけ……何十,何百,何千と,――この瞬間にも際限なく増え続けていっていることになる.あくまでも,理屈としてはね(中略)

問題なのは…….その“拳銃”では,既に決定してしまった“未来”は変えられない.それが,それこそが,大問題なんだよ.そこにこそあなたの覚悟は試される.」(「さくら、もゆ。」柊ハル)

 

ナナちゃんが語るそのような時間の絶対的な順序=一回性.それは賽の一振りとしての第三の時間のもつ順序性である.そしてその表現としての直線のイマージュは“夜”が一点で誕生したけれど,それ以前にもそれ以後にも定点なく広がっていることのうちに示されている.

 

「……“過去”も“未来”も“現在”も.そんなものはあんまりにも関係がなく,すべてのひと達の“隣”に――あらゆる刻の“隣”に存在し,あらゆる刻と刻とを繋ぐ“夜の国”」(「さくら、もゆ。」クロ)

 

「だからすべての時間は多角的に繋がっているし,現象の記録媒体である時間の中で,一度起きてしまった出来事は,あらゆる時代の“夜”の中にその影を落としてしまう.」(「さくら、もゆ。」クロ)

 

このような太陽の時間の隣に無際限に均一に広がっていく“夜”の存在様態はまさに直線のイマージュとして表現される第三の時間である.

さらに,子供のみ出入りできるという“夜”の特徴にも注目したい.

 

「でも“夜”には“女王”が鍵を掛けてしまっている.どんなに強引な方法を試そうと,大人たちが生身を持って“夜”に這入ることはできなくて…」(「さくら、もゆ。」クロ)

 

この現実世界を生きる私たちが出入りできないけれども子供のみ出入りできるという事実は,根拠なき根拠として第三の時間が示されたものとパラレルではないだろうか.“夜”のもつ現実世界に対するそのような超越論的な審級,それは第三の時間の表現としての“夜”という見地を強めるものになる.さらに,その“夜”の潜在性は分裂症と潜在的なものの関係と合わせて考えることもできるのではないだろうか.

「さくら、もゆ。」のシステム論

”夜”の時間論的な考察から生成のシステムとしての「さくら、もゆ。」の一面が見えてくる.

ドゥルーズのシステム論

ここまでの“夜”に対する時間的な考察から得られた時間の発生は,時間に限るものではない,存在一般の発生のシステムとしてとらえていくことができる.

そこでまず,ドゥルーズの「理念」を見てみる.理念とは何か.それは見えるものが見えるために必要とされるけれども,それ自身は見えないものである.「実在的であるが現実的ではなく,観念的であるが,抽象的ではない」.それは経験されるものではなく,ただ経験したことの内に自ずと示されているものである.しかし,理念は理念として終わるのではない.理念はそれ自体として,差異化を取り消し均していく傾向を持っている(そうでなければ永遠に現在化されることはなく,私たちは経験できないだろう).それは第二の時間が行う精神的な反復と同じものであろう.そして,第二の時間に対する第三の時間の在り方と同じように,理念を理念として引き留めるもの,つまり現実化を解体するものが必要とされる.賽の一振りあるいは不確定点と呼ばれる脱根拠としての根拠がやはり,一般存在者のシステムとしても必要とされるのである.

 

偶然の全体をそのつど,一度で凝縮する不確定点から,もろもろの特異点が流出するように,命令から,諸理念が流出するのである(「差異と反復」)

 

この理念と賽の一振りとのパラドキシカルな関係.それが存在が個体化していく上で最も注目すべきものである.

 

理念は,実在的であるが現実的ではなく,差異化しているが分化してはおらず,充分であるが完璧ではないということだ.〈判明で曖昧なもの〉とは,本来は哲学的な酩酊・眩暈であり,つまりデュオニソス的な〈理念〉である.したがってライプニッツは海の岸辺であるいは水車の間近で,まさにぎりぎりのところでデュオニソス的を逃していたのである.(「差異と反復」)

 

デュオニソスとアポロンとはむしろ,哲学的な言語活動において,かつ諸能力の発散的な行使のために,二つの暗号化された言語を合成する.すなわちスタイルの齟齬を合成する(「差異と反復」)

 

デュオニソス的な理念を背後に引き受けてアポロン的に現実化するというパラドックスがその現実化を推し進める力なのである.共存しえないその齟齬こそが,思考しえないものを思考せねばならないその在り方が理念を現実化へと導く力なのである.このような様態で差異が分化し現実的なものになっていくことで種別化と組織化が起こる.その個体化の果てには「私」と「自我」という形で取り出されるものであろう.個体はやはり,デュオニソス的なものを背後に抱え続けていかざるを得ない.

 

理念的統一としての〈判明で曖昧なもの〉に,個体化の強度的統一としての〈明晰で混濁したもの〉が対応している.〈明晰で混濁したもの〉は,理念を形容するものではなく,理念を思考し表現する思考者を形容するものである.なぜならば,思考者は個体そのものだからである(「差異と反復」)

 クロに即して

分化によるこのような個体の生成をクロの例を持って実際にみてみよう.

 

しかし彼女自身は,漆黒色の子ども達の傀儡のようなものだった.

「彼女は名もなき大勢いるうちの一匹でしかなかったし,自ら考え行動するための心など持ち合わせていなかった」

他の黒猫たち同様に,命じられるままに大人たちのもとへ歩いて行って……その心をひび割れさせていっただけ.

ただ淡々と与えられた“役割”をこなすのだ.

そうすることに深いさだとか,疑問だとかを感じることもなかった.

ただ,幾つもいくつも大人たちの心を壊していくその中で…….

「クロ一匹だけが何か違った.大人たちの壊した心の破片を,自分の中に少しずつため込んでいったんだ」(「さくら、もゆ。」クロ)

 

これは多くの反復を経て差異から個体=クロが産まれたととらえることはできないだろうか.“役割”を繰り返し,大人たちの心の差異に触れることで差異に際立たせられる形で“私”=クロが産出される.心の破片を取り込むということは,つまり差異のある大人たちの心を分化させる形で少しずつ“私”を形成していったということである.このようにして,クロの“私”の誕生は,存在一般の生産システムの一例としてみることができるのである.

 「さくら、もゆ。」の精神分析

ここでは,精神分析的な観点から”夜”の在り方を見ていく.これによって,”夜”の永劫回帰的性質がさらに際立つことなる.

エス-願い-

さらに精神分析的な観点を交えてこのシステム論を見てみよう.そうすることで,“夜”のもつ死の時間が明確に意味を,位置を持つこととなる.

ドゥルーズは三つの時間をそれぞれエス,エロス,タナトスと関連付けて語ってゆく.

ハビトゥス=習慣化の位相と重なるのはエスである.エス,すなわち無意識.それは欲望が具現化されるという受動的総合の場でもあり,かつそれは能動的な自己性が発生していく場でもある.そのような点において,エスの働きと生ける現在である第一の時間は重なってゆく.

それに“夜”の中の願いを重ねることは容易だろう.

 

――だけど,すべての願いが叶う場所.いや,すべての願望が形となる場所.(「さくら、もゆ。」)

 エロス-代償-

しかし,第二の時間の在り方と同じようにそれには現実化されない潜在的な基盤の領域が確保される必要がある.そのエスに対する潜在的なものがエロス的な欲望の基盤として描かれる.幼児の興奮が向かう一つのものは現実的な対象である.ここでは,母を例にして考えてみよう.そして幼児は母の知覚の反復を目指していく.しかしその裏で常に現実的な対象に対して潜在的なものが裏として絡まっていく.それは母の例では,指や遊具といった根源的な母の代理性のことである.このようなそれ自体具体的なものの裏側のような潜在的対象にエロス的な欲望は絡みついていく.現実的なものへと欲望を駆動させるがそれ自身はとらえ損なわれるエロス的な欲望.そのようなエロス,あるいはラカンの「対象a」. それは第一の時間の根拠としての第二の時間の位相とパラレルな位置を成すだろう.

そしてこのエロス的な欲望は“夜”の持つ夢の時間という在り方と重ね合わせられるのではないだろうか.ただしこの“夜”のなかでは,願いはそのまま叶えられるのではない.そこには代償が必要になる(それがエスのイマージュとして“夜”をとらえないことの理由である).しかもこの代償すらも私たちは意識的に捉えられないけれども,私たちが思う通りになる.

 

「大雅も知っているとおり,“夜”の中で何かを得るのなら,相応の“何か”を差し出す必要がある……」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

 

「大雅はあなたの代わりに“影”となる.そして,“夜”の中を永遠に彷徨い続ける.いつか幸せだった時間ばかりを追い求めて――それが,あの子の“想像”してしまった“代償”だよ」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)

 

そのような願いに対する裏側としての代償の在り方はまさにエスに対するエロスの定置であろう.ゆえに,“夜”はその一面にエロスのイマージュとしての機能をもつ.

タナトス-死者の時間-

そして時間論の第三の時間と同じように,エス-エロスの循環に対するより深く絶対的な差異を取り入れるものが無根拠として超越論的なものとして必要とされる.タナトス.その経験的なものを放棄し,無底としてその循環を打ち破る空虚な形式としての時間.それは死への欲動として生を動かし,それによってエス-エロスのその差異を切り開いていく.

 

エロスとともに循環に入ることはない.死の本能はけっしてエロスを補完するものでも,エロスに敵対するものでもない.死の本能は,いかなる意味でもエロスと対称的であることはなく,むしろまったく別の総合を証示している(「差異と反復」)

 

そして,エス-エロスという関係だけではなく,このエロスは永劫回帰という点において第三の時間と大きなかかわりを持っていく.

 

永劫回帰が本質的に死と関係しているのは,永劫回帰が「一」であるものの死を,「一度きり」に促進し,かつ巻き込んでいるからである.永劫回帰が本質的に未来に関係しているのは,未来が,多様なものの,異なるものの,偶然的なものの,それら自身のための,かつ「その都度」の展開であり,繰り広げであるからだ.(「差異と反復」)

 

永劫回帰の一度きりという賭けとしての偶然性の肯定は,ドゥルーズが語るように「死」と「未来」を繋ぐ架け橋のようなものになる.その一度きりは死へと向かっていくものであり,なおかつそれは「未来」を切り開いていくものである.このような根底で第三の時間とタナトスは密接に連関しあっている.これはドゥルーズが一貫して一回的なものの反復である,第三の時間が永劫回帰のイマージュとしてあることに由来するだろう.

ここに死の時間として描かれている“夜”がそうであることに意味を持つのである.

 

“夜”…….

“夜の国”

ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある.終わってしまった命あるものは,この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった.(「さくら、もゆ。」)

 

 

第三の時間として見られる“夜”が死者の時間であること.それは,タナトスと第三の時間の連関を示唆しているとしてみることができるのではないだろうか.影となった死者は第二の時間のイマージュとしてとらえられるのであった.しかし,あの世とこの世のはざまを生きている影ではない一時的な滞在者である死者―それは影とは違い明確に意思を持つ存在である―についてはこれまで何も述べてこなかった.しかし,ここにおいてそれはイマージュとして機能することがわかるだろう.“夜”にいる死者.それは経験的ではない空虚な存在であり,太陽の時間を生きる私たちやその記憶を再生し続ける影とは本質的に異なる存在である.それは“私”の終着点でありながら,次の時間のことを願いそして“私”が死ぬことで次の生へと推し進めていく.そのような願いの無底としての死者の時間として“夜”が描かれていることから,“夜”はタナトスのイマージュと言ってもいいだろう.タナトスと第三の時間.どちらによっても“夜”の永劫回帰的な性質は強調されていく.

 終わりに

今回はここまでにするが,これまで話してきたように“夜”は第二の時間と第三の時間(あるいはエロスとタナトス)のどちらをも含んでいるように見える.それについてどのように考えていけばよいのだろうか.それは現実化を常に逃れつつ現実化していく発生のシステム,ドゥルーズのいう静的発生,としてとらえられるのではないだろうか.二つの空間の間を成す薄膜の”夜”.それはドゥルーズ的な表層を巡る議論とも見える.しかし,さらに議論を深めるためには賽の一振りとして与えられた深層をさらに掘り下げて考えてみようとおもう.次回はそれを書いていきたい.

参考文献

「差異と反復」上下,河出文庫,ジル ドゥルーズ,財津理訳

「瞬間と永遠:ジル・ドゥルーズの時間論」,岩波書店檜垣立哉

ドゥルーズ入門」,ちくま新書檜垣立哉

ウィトゲンシュタイン入門」,ちくま新書永井均