MiyanTarumi’s blog

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感想とか色々。数物系は書くか微妙。。。

あなたのための物語:「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」が引く逃走線

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なぜ今改めて「さくら、もゆ。」について考えるのか

2019年初頭の「さくら、もゆ。」の発売からもうすぐ二年が経つ。この二年の間に社会には様々な変化があった。2019年、その年には元号の平成から令和への変遷、さらには2020年、今年には世界的な新型コロナウイルスの流行により私たちは‘‘新しい生活様式”という名の、自由が制限された生活を強制されることとなった。このような社会状況において直面するのは、私たちの生活――人生がいとも簡単に崩れ去ってしまう、という事実である。自然の脅威という強大なものに対する人間の無力さ、無意味さ。しかし、そのような中であろうと私たちはただひたすらに生きていくしかないのでろう。

では、どのようにしてこの‘‘無意味さ”に立ち向かってゆくべきなのか。

「さくら、もゆ。」を流れる‘‘私たちの無力さ、あるいは人生の無意味に抵抗し、未来へと進んでいく”という通奏低音。「さくら、もゆ。」とは、常に新しいものへと開かれ続ける物語であり、‘‘無意味”な私たちがこの世界の中でなんとか生きてゆくその有様を教えてくれる。改めて「さくら、もゆ。」について考えるべき意義は、ここにこそ存在するのである。

 そこで「さくら、もゆ。」をドゥルーズ=ガタリの概念装置と関係づけて読んでいくことにする。ではなぜ、ドゥルーズ=ガタリなのか。それは「さくら、もゆ。」の中で行われる自己犠牲=罪責を乗り越えて、自らの生を歩んでいくこと、つまり、無意味であった私の人生をあるがままに肯定すること。ドゥルーズ=ガタリが欲望の逃走線を引いたこととパラレルに、「さくら、もゆ。」はそのことを語るからである。

文学機械――「さくら、もゆ。」

「さくら、もゆ。」の構造において特筆すべき点は、大きく分けると二つ存在する。一つ目は、この物語においては語り手、すなわち物語の中で起こるすべての事象を把握しているような超越論的な主体の存在が不在であるということである。物語は常に一人称=主体の目線から語られ、決してそれが第三者の目線になることはない。このことによって、作中において常に場面が転換し、主体=語り手が入れ替わる。つまり、作中における物語の進行とともに語り手自身が自己形成されてゆくのである。

二つ目に着目すべき点は、「さくら、もゆ。」において各ヒロインのルート――あるいは平行世界と呼ぶべきであろうか――が自律運動を行うことによって――もちろんそれらは互いに影響しあうのだが――作品全体を構成していて、明確な、因果的な統一性を持たず、常に全体は部分(=各ルートにおける物語)によって再構成・再形成され続けるということである。因果的な統一性を「さくら、もゆ。」が持っていないということはどういうことか。このことは、‘‘夜”をめぐる現象のうちに強く表れている。「さくら、もゆ。」において中心的な場所を占める‘‘夜”あるいは‘‘夜の国”は、大別すると二つに分けられる。一つは、生前のましろが悲しい思いをしている芸術家の家系の子供たちのために作り出したものであり、これはましろの物理的――肉体的な死によって閉じられることになる。これを以後では初期‘‘夜”と呼ぶことにしよう。一方で、‘‘夜”は、もう一つ存在し、これは兎蛙あず咲の弟、兎蛙智仁に会うために作り出したものであり、これは初期の‘‘夜”とは区別されるものであり、これを以後では‘‘夜”と呼ぶことにする。時間的因果性を考えるならば、初期の‘‘夜”が閉じられてから‘‘夜”が作られるまでの期間において初期であれ兎蛙あず咲によって作り出されたものであれ「夜の国」そのものが存在していないのでなければならない。しかし、作中においてそうはなることはなく、未来においての出来事である‘‘夜”の生成は過去にも波及し、過去においても‘‘夜”が太陽の時間の裏側として存在してゆくのである。

……“過去”も“未来”も“現在”も。そんなものはあんまりにも関係がなく、すべてのひと達の“隣”に――あらゆる刻の“隣”に存在し、あらゆる刻と刻とを繋ぐ“夜の国”

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

 あるいは、魔法の代価として、‘‘夜”の女王あるいは”夜‘‘の王になることによってすべての時間世界、時間においてそれが現れること。

 だからすべての時間は多角的に繋がっているし、現象の記録媒体である時間の中で、一度起きてしまった出来事は、あらゆる時代の“夜”の中にその影を落としてしまう。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

 しかしこれら以上に時間的因果の破綻が象徴的になるのは、‘‘夜”あるいは‘‘夜”の女王(王)が存在していることによって、後期の‘‘夜”を作ることになる兎蛙あず咲、兎蛙智仁、そして奏大雅が一つの場所に集められるにも関わらず、一方で後期の‘‘夜”あるいはその女王、王が存在することの根本となる『さくら、もゆ。』は一つの場所に集められるという事象そのものに依存しているという事態である。

このことに象徴される時間的因果の破綻は物語そのものの破綻を意味するのだろうか。いや、これらはすべて作品を構成する諸部分―シーンが接続しあい、互いの効果、エネルギーを切断し、そしてその備給によって新たな世界を形成し直すことの現れであり、ここにおいて確定した一つの全体というものは存在するべきではないのである。統一的存在の不在という事態によって、すべての諸部分は等しく作品の中において価値を持つ。何か一つの統一的審級を持たないこと。そのことによってのみ差異が否定的契機をもつことなく、ただ‘‘ある”ことができるのである。存在しているのは常に断片的な部分であり、即ち、全体とは部分に過ぎないのである。

「さくら、もゆ。」は、語り手が常に自己形成し続ける、という点において、また、作品全体が平行世界という部分によって再構成され続けるという二重の意味において、形成、変化し続ける。これは、まさに絶え間なく接続と切断を行い生成変化をし続ける機械であり、ドゥルーズ=ガタリが「文学機械」と呼んだものに他ならない。

…文学機械においては、いずこにおいても、部分といわれるものはすべて次のようにして⦅つまり、対称的でない両翼、中断された方針、密封された箱、口のない壺、仕切られた隔室といったものとして⦆生み出されるのである。 ここにおいては、隣接しているものの間にさ隔たりがあり、この隔たりがまた〔否定の働きではなくて〕肯定の働きをするものなのである。部分は、いわば同じパズルの断片ではなくて、いくつかの違ったパズルの断片をなしているのである。これらの断片は、常に位置は定まってはいるが決して特定されない場所にそれぞれがいずれもむりやりに押し込まれ、これらの断片のきちんとはまらないふちやへりは、残りの断片と形を合わせるために、力ずくで折りまげられ、自由に形を変えられ、まるで屋根瓦のように相互に重ねて組み合わされているのだ。これこそ、すぐれて分裂気質の作品である。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第六節 全体と諸部分 

 ...決して全体が見渡されるわけでもなく、眺める見地に統一性があるわけでもない。むしろ、そうした全体や統一があるとすれば、それはただ横断線の中にあるだけである。横断線とは、「途切れたり対立したりしている種々の断片〔列車のあちこちの窓から眺めた景色〕を近づけて結びつけたり、あるいは移し変えて一緒にしたりするために」、旅行者が夢中になって、窓から窓へと次々と連絡をつけている線のことである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第六節 全体と諸部分 

 統一的――絶対的な主体を作中あるいはその構造において持たないことによって、「さくら、もゆ。」は一つの文学機械として罪のない許しを申し渡すのである。形式にとらわれることなく逸脱する流れ、脱コード化された作品の構成。「さくら、もゆ。」という文学機械はその構成において運動する文学機械のその有様そのものなのである。

‘‘夜”――器官なき身体

‘‘夜”とはどういうものであったか

「さくら、もゆ。」においてはほとんど全てのシーンが‘‘夜”という、太陽の時間――これは私たちが現に今生きている時間である――の裏側にある時間において展開される。「さくら、もゆ。」が持つ力、あるいはその意義を読み解くためには‘‘夜”の様態を把握すること、そしてそれがもつ意義を確認することは避けて通れないであろう。そこで、今一度‘‘夜”がどういったものなのかを確認する。

 もうひとつの‘‘夜”の中では、肉体を持ち込むことができた者に限り――
頭で、心で、思い描いたすべての光景が形となって現れる。そういう性質を持つ刻の中に、“ゆめのねどこ”はある。」
ここはすべてが叶う不思議の国だ。(…)それはまるで、明晰夢。毎夜見る夢の光景を自在に、思うまま、操作できてしまえる感覚に良くよく似ている。 

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

“夜”……。
“夜の国”
ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある。終わってしまった命あるものは、この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

 ‘‘夜”とは、魔法という形で自分が思い描いたものを代償を払うことで実現することができる場であり、また新たに人が生まれ直すための経過点のような場所である。

助けたいと願う愛する者たちから、いつまでも永遠に、憎まれ続ける」という代償によって「世界中の母親に何が世界で一番大切なのかを思い出させる」という欲望を叶えること。あるいは、「いつも一緒に笑い合い、生きていきたいと願い、その人生を支え、助け出した愛すべき人たちに、憎まれ、疎まれ、嫌われてしまう」という代償によって「‘‘夜”の女王を‘‘夜”の王へと書き換える=二人に幸せな未来を取り戻す」という願いを叶えること。そして、その他の願いとその代償。いずれにせよ、その過程において行われていることは‘‘夜”という場の上で願い=欲望が作動しているということである。私たちが今生きている世界では願ったところで到底かなえられない願いが存在する。例えば、亡くなった人を生き返らせる、存在そのものをなかったことにし書き換える。しかし、‘‘夜”の世界においては代償という形で支払いはあれど、すべて叶えられるのである。即ち、‘‘夜”において主体は、私たちは(代償という形で支払いがあるとはいえ)現実というものに束縛されることはない。「現実という原理」がなくなった世界。それが‘‘夜”が提示しているものである。では、このような‘‘夜”の在り方とそして‘‘夜”は生―死という輪廻の中で経過点という役割を持っているということをどのように捉えればよいのだろうか。‘‘夜”が持つ二つのアスペクト*1をつなぐもの、それがドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」の概念である。

器官なき身体

 では、「器官なき身体」とは何であり、そしてそれはどうやって願いを叶える‘‘夜”と生―死の経過点たる‘‘夜”を結びつけるのか。

器官なき身体そのものの前にドゥルーズ=ガタリがどのように世界を、私たちを見ていたかを振り返る必要がある。

〈それ〉çaは作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで〈それ〉は作動している。(…)にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ〉leçaと呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械 des machines なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して。〔他の機械を動かし、他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産

ここで出てくる〈それ〉とはフロイトの言う Es であり、また機械とは工場にあるような機械だけではなく、自律的な運動をするようなものだと考えられる。

機械――口という機械、足という機械、あるいは思考する機械、さらには社会という機械。これらを欲望機械というのだが――は本質的に分裂的―革命的である。

欲望する諸機械は二項機械であり、二項規則⦅つまり、つながり体制⦆の下にある機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。(…)ということは、ここには常に流れを生産する機械<と>et、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをもつもうひとつの機械<と>etが存在しているということである。(<母乳―口>といった関係がそうである。)そしてまた、今度は逆に、始めの機械がもうひとつの別の機械の方に接続され、この機械に対して始めの機械が切断あるいは採取の行動をとることになる。したがって、二項系列はあらゆる方向に単系的線型状に〔多岐的ではなく〕のびてゆくことになる。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産

しかし、私たちの身体を振り返ってみれば、口、手足、脳といった欲望機械が分裂的に伸びてゆくことはない。私たちの欲望機械は有機体―充実身体―モル的身体として固定化された役割を担い続けている。ひとつの身体に折檻された欲望機械は、有機体―充実身体―モル的身体のその形態に不快を感じる*2

ところが、じつは、ひとつの純粋な流体が、切断されることもなく自由な状態にあって、ひとつの充実身体の上を流れ滑っているのである。種々の欲望する諸機械は、われわれの有機体を形成するものであるが、ところが、この形式生産する働きの只中において⦅この有機体が生産されてゆく働きそのものの中において、といってもいい⦆、身体自身は、有機体の形態に有機化されることに苦痛を感じるのである。つまり、別の形の組織化なら、あるいは全く組織化されないことなら何でもないが、まさに有機体の形態に有機化されることには苦痛を感ずるのだ。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産

 まさにそのモル的ではない充実身体の上を流れてゆくもう一つの身体。欲望機械が非有機的――純粋な分子的身体、それがアントナン・アルトーがそう称した「器官なき身体」である。

そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないのだ。」種々の自動機械装置は一瞬にして停止し、それは非有機体的な塊りを出現させることになる。この塊りは、それまではこれらの自動機械装置が分節し作動させていたものにほかならない。この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものなのである。アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態〔手にふれられるような姿や形〕をとることもなく、またいかなる形象〔目に見えるような姿や形〕をなすこともなしに存在していたその時に、この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。この死には、モデルがないわけではない。じじつ、死の充実身体は、みずからは動かずして欲望を動かす〈不動の動者〉であり、このために欲望はこのことをも⦅つまり、死をも⦆また欲望することになるのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産

 ここで大事なことは、器官なき身体は欲望機械が有機的――モル的であることに不快を覚えるのであって、欲望機械それ自体がその運動を止めることを志向する、ということではないということである。つまり、欲望機械が非有機的――純粋に分子的に運動している状態においては苦痛を感じない、ということである。器官なき身体は「非生産的なるもの」ではあるけれど、非有機的な欲望機械が接続的(生産的)総合されるまさにその時、その場所に存在し生産の過程に投入されるのである。即ち、

器官なき充実身体は、反生産の領域に属しているが、(…)やはり接続的綜合⦅すなわち、生産的綜合⦆のひとつの性格なのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産

 これまでからわかるように、欲望機械と器官なき身体は互いに相反するものである。というのも、欲望機械は二項関係―接続的綜合によって接続/切断を繰り返しながら有機的につながっていくのに対し、器官なき身体は欲望機械が非有機的であることを目指すからである。つまり、器官なき身体は充実身体――モル的身体の状態にある欲望機械に不快を感じ、欲望機械を作動させその檻から解放し純粋に分子的な状態を目指すのだが、欲望機械の持つ分裂的な性質――二項的に次々に他の機械と接続されていくこと――によって欲望機械は不規則に接続され続け、逆に器官なき身体の緊張、苦痛を高めることになる。そこでこの欲望機械の分裂的運動を止め、ひとつの場所に留めようとするものが生じる。それがパラノイア機械である。

欲望する諸機械と器官なき身体との間に、明らかな戦いが起る。さまざまの機械がそれぞれに接続し、その機械がおのおのに生産を行って、そのすべてが運転音をたてることになること、このことが器官なき身体には耐え難いものとなるのだ。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体

パラノイア機械の発生は、欲望する諸機械の生産の進行と器官なき身体の非生産的停止とが対立するとき即座に起こることなのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体 

 欲望機械と器官なき身体が対立し、パラノイア機械が生じるのだが、その欲望機械と器官なき身体の間の矛盾が全くなかったかのごとく表現する「吸引機械」――「奇蹟を行う機械」が続くことになる。これは、器官なき身体の上に新しい器官機械――口や手足といった欲望機械――を上書きし、欲望機械と器官なき身体が和解することになる。

器官なき身体は欲望する生産に折り重なり、この欲望する生産を引きつけ〔吸引し〕、これを自分のものにする〔領有する〕。器官機械は、器官なき身体に引っかかり付着することになる。(…)こうして吸引機械が反撥機械の後に続きこれに代ることになる。あるいは、これに代る可能性が開けてくることになる。つまり、パラノイア機械の後に、奇蹟を行う機械が続くことになるのだ。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体 

 この器官なき身体に新たな器官機械を上書きする過程において、欲望機械、器官機械を器官なき身体の上にどのように書き込むか=登記、登録するか、という離接的登記を行うエネルギーを《ヌーメン》と呼んでいる。

あるいは、むしろ、ひとが欲望する生産の接続的「労働」をリビドーと呼ぶのであれば、われわれは、このエネルギーの一部が離接的登記のエネルギー《ヌーメン》)に変換するということを語っておかなければならない。(…)エネルギーのこの新しい形態をなぜ神聖なるもの⦅つまり、《ヌーメン》〔神霊〕⦆と呼ぶのか。器官なき身体は《神》ではない。まさにその反対である。しかし、器官なき身体が一切の生産を吸引し、これらの生産をすべてそれぞれに離接の中に登記することによって、一切の生産に対して、奇蹟を行う力を持った魔法の表面としての役割を果すことになるとき、この器官なき身体を遍歴するエネルギーは神聖なるものであるわけなのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体 

 ヌーメンの働きによって生じた新たな器官なき身体の上の配置からそれに対応する新たな主体が生じることになる。

「過程」ということばの意味を文字通り生かして事態を捉えれば、生産の上に登録が折り重なってくるわけであるが、この登録の生産そのものは、生産の生産によって生み出されてくるものなのである。同様に、この登録に続いて消費が起こってくるが、この消費の生産は登録の生産により、またこの登録の生産の中で生み出されてくるのである。ということは、主体の秩序に属する何ものかが、登記の表面の上に姿をみせてくるということである。ただし、この主体は、固定した一定の自己同一性〔身元〕をもたない奇妙な主体である。この主体は、器官なき身体の上をさまよい、常に欲望する諸機械の傍にあって、生産されたものからなるいかなるもの取り分を吸収するかによって自分が誰であるかを明確にしてゆくものなのだ。この主体は、いたるところで、自分が生成し転身することからその報償を享受し、みずから消費を終える事典において主体として生まれてくるのだ。だから、新たに消費を終えるたびごとに、主体はその時点において生まれ変わって現れる。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体

 そして、新たな主体は登録され直した欲望機械のエネルギーのうち主体となるものを「消費のエネルギー《ヴォルタプス》」と呼ぶ。

生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が登録のエネルギー(《ヌーメン》)に変容したのと同様に、この登録のエネルギーの一部は消費のエネルギー(《ヴォルタプス》)に変容するのである。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体

 こうして誕生した新たな主体及びその器官なき身体ドゥルーズ=ガタリは独身機械と呼んでいる。

こうして、パラノイア機械と奇蹟を行う機械に続いてその後に、新しい機械が現れてくるのだ。この機械は、欲望する諸機械と器官なき身体との間に新しい縁組を実現し、新たに人間を、つまり輝かしい有機体を誕生させるのであるが、この新しい機械を示すために、「独身機械」という名前を借りることにしよう。(…)ここにあるのは、この生産するものとしての第三の機械がもたらす残余としての和解なのだ。

―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第二節 器官なき身体

器官なき身体としての‘‘夜”

 ‘‘夜”の在り方を器官なき身体として見ることはできないだろうか。なぜそのように器官なき身体と‘‘夜”を重ね合わせるのか、といった問題は今は問わないことにしておこう。

まず第一に考えることは、‘‘夜”とは、新たに人が生まれ直すための経過点のような場所であるということである。即ち、古い主体が‘‘夜”を経由して新たな主体へと生まれ直すのである。しかし、ただ死後の人間が新たな主体が形成される場所として‘‘夜”を安易に器官なき身体に重ねるわけにはいかない。‘‘夜”が器官なき身体と重なるのは次においてである。それは、‘‘夜”において新たな主体へと生まれ変わる際には、生前の記憶や経験といったものを‘‘夜”の世界において金貨、あるいは銀貨に変換し、そして銀貨で才能を、金貨で次の人生=新しい主体への切符を買うことができるからである。

ここの通貨は魂に刻み込まれた経験である。

そこここに設置してある小さな換金所でそれを金貨や銀貨に変えるのだ。

楽しかった思い出は金貨に変わる。

つらかった思い出は銀貨に変わる。

今回の人生をどう生きたかによって、選べる”次‘‘が多くなる。

(…)更にここで買えるものは切符だけではなかった。

次の人生などに持ち込める”才能‘‘や”感性‘‘や”性格‘‘などといった精神的(あるいは肉体的)優位性を購入できる。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

つまり、‘‘夜”という場所において前の人生=古い主体における記憶や経験といったもの――それはまさに文字通り器官なき身体にくっついているのである――が古き主体という身体から金貨や銀貨といった形で解放され、そしてそれらが新たな主体へと次の人生への切符としてその身体に新しく書き込み直されるのである。この一連のプロセスは、器官なき身体の上で行われる主体の総合のプロセスに他ならない。

 では、‘‘夜”において行われる魔法及びその代償の支払いについてはどのように解釈するべきなのか。それを考えるためには、器官なき身体が欲望機械を動かす、という意味においての器官なき身体の二つの極――分裂症的―革命的極とパラノイア的―ファシズム的極――を考えなければならない。先に触れたように、器官なき身体の上では分裂的に広がろうとする欲望機械とそれに抵抗し、一つのものに固執しようとするパラノイア機械がシーソーゲームを行っている。

われわれは、一切が器官なき身体の上で起るものと考えている。ところが、この器官なき身体は、いわば、二つの顔をもっている。(…)物理学には、二つの方向がある。そのひとつは、モル的な方向であり、種々の大数や種々の群現象に向かう。いまひとつは、分子的な方向であり、逆に種々の単一体に没頭する。つまり、距離をへだてたり次元を異にしたりしている単一体の間に生ずる相互作用やつながりに没頭する。

―アンチ・オイディプス、第四章 分裂分析への道、第一節 社会野

 このシーソーゲームが分裂的な方向を向いているとき、器官なき身体の上で生じた主体は「現実という原理」に依ることなく主体は変化する。

自閉症や感情の鈍麻については、つまり乏しい実在を最後には喪失して人生とのつながりを欠如することについては、すべてのことが語られた。分裂症患者たち自身がまた一期待された病状の鋳型に嵌まり込むことを求めて、一切を語った。暗黒の世界、増大する荒地。この荒地には原子工場が建てられ、孤独な機械が海浜に唸っている。ところが、器官なき身体がまさにこうした荒地であるのは、それがいわば分解不可能な不可分の距離であるからなのである。分裂者はいたるところに存在するために(つまり、実在するものが生産されるところには何処にでも、いや、生産されたところ、生産されるであろうところには何処にでも、存在するために、この不可分の距離を飛び移ってゆくのだ。確かに、実在はひとつの原理であることをやめたのである。かつてはこうした原理に従って、実在するものの実在は、分割可能なる抽象量として定立されていた。そしてこれに対して、実在するものは、それぞれに別の性質をもった種々の個体の中に、あるいははっきりと質を異にする種々の形態の中に配分されていた。ところがいまや、実在するものとはひとつの生みだされるものである。つまり、種々の度合の強度量の中に種々の距離を包み込んでいる、ひとつの生産物なのである。

―アンチ・オイディプス、第二章 精神分析と家庭主義、第五節 消費の連接的綜合

 器官なき身体と重ねた‘‘夜”において行使される魔法及びその代償の支払いについて、それが器官なき身体の上のどのような運動なのか。そこで振り返るのは文学機械の部分でみた「さくら、もゆ。」における時間的因果の破綻である。自身を‘‘夜”の女王あるいは王へと書き換える魔法。これはまさに‘‘夜”の中で行使された魔法の中でも最も象徴的なものだが、‘‘夜”を器官なき身体の分裂症的――革命的極ととらえた時にわかることは、もはやここにおいて時間的因果の破綻という「現実という原理」に即した刻印を押しつける必要はないということである*3。魔法とは‘‘夜”という器官なき身体がその分裂症的な極に従い、内包する諸々の‘‘夜”を構成する部品を改めてその身体に書き込み、再構成する運動そのものであり、その行使に必要である代償とは、器官なき身体への再書き込みにおけるヌーメンの役割と考えるのである。魔法によって‘‘夜”――器官なき身体が「現実という原理」に捕らわれることなく因果すらも含めたその身体を常に新たな‘‘夜”へと変えてゆくこと。

‘‘夜”――器官なき身体のその運動の様相が何をもたらすのか。それはまさに、何故‘‘夜”を器官なき身体として捉える必要があったのかという問題と深く関わっている。

誰かに何かを負うということ――悲しき死の歌

 物語の中で‘‘夜”――器官なき身体の上で一体何が起こったのか。

「さくら、もゆ。」という物語で現れる登場人物達についてまず述べねばならないのは、誰もかれもが自己犠牲という誰か、何かに対する負債を持っている、ということであろう。柊ハル、杏藤千和、夜月姫織、クロ、ひいては奏大雅――これは主人公の方である――まで誰もが誰か、何かに対して大きな自己犠牲という負債を抱えている。そしてその自己犠牲の返済に時として自分、あるいは自分の愛する人さえをも捧げようとする。

大切な命を取り戻すんだ。

それが私の‘‘夢”だった。

(…)だからあなたの‘‘心臓”を、‘‘夜”に捧げてしまおうと思っていたけれど゙‥‥‥。

(…)自分の‘‘夢”を叶えるのだから、自分の‘‘命”をもやさずしてどうするというのか。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

「お願い。なんだってする。どんなことだってがまんする。私の全部を、あげるから。だから……お願い。お願いします」
どうか、神さま、ナハトに大切なお友だちを返してあげて……。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

「おじさん……
私たちは、出会わなければよかった」
‘‘大切な人に起こる未来の不幸を肩代わりすること”
それが、幼いハルの願った‘‘魔法”だった。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

――この命そのものが疫病神だ。
――周りの人たちを。
――何よりも大切だと想うすべての人たちを。
――ぼくは手当たり次第に不幸にしてしまう。
――この命は、この存在は、そういうふうにできてしまっている。
――だから死にたい。最大最悪の罰を受けてから、死んでしまいたい。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

「……わたしなんて、生まれてこなければ、よかった」
そうだ。大雅……。ねえ、大雅。わたしたちは、出会わなければよかったんだよ。

―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-

皆が自己さえをも殺してしまうような大きな負債。返しきることができないほどの負債。その負債の存在が勘違いであるのか、本当にその返済主が求めているのかは返済をする主体にはわからないけれど、ただ確かに彼―彼女らの中には家族、あるいは家族代わりのものに対する負債が存在している。大事なことは、その負債によって生きるということ、つまり、生きる主体の欲望機械の運動がその負債の返却という形で規定されてしまっている――コード化されてしまっている、ということである。自分が奪ってしまったナハトとソルの暮らしを返すこと、自分の命を母親へと返すこと、あるいは、おじさん=奏大河との出会いをなかったことにすること。自分の人生を負債の返済という形で消費しつくしてしまう抑圧された生き方。問題になっているのは、そこには「悲しい死の歌」が、「最も崩壊した歌」しか流れていないということである。では、「生の讃歌」をどのように奏でればよいのだろうか。あるいは、私たちが行きつくところには「悲しき死の歌」しか流れていないのだろうか。

逃走線――生の讃歌

私たちは誰もが誰かに対して負っている(あるかもわからない)負債を永遠に返していくことしかできないのか。はたまた、どこかにそうではないのものがあるのか。そのことに関する一つの答え、プロセスを「さくら、もゆ。」は提示している。

 「さくら、もゆ。」は他の何の物語でもなく、まず第一に‘‘幾千の夜を越え想い繋ぐ”「愛」の物語なのであり、「愛」とは負債がどのようなものであるかに関する指標なのである。

フロイトは、決して『W・イェンゼンの《グラディヴァ》における妄想と夢』〔一九〇七年〕におけるよりも、先には進まなかったのだ……。要するに、社会野に対するわれわれのリビドーの諸備給は、反動的なものであれ、革命的なものであれ、余りにもみごとに隠されている無意識であるので(あるいは、前意識的備給によって余りにも巧みに蔽われているものであるので、といってもいい)、恋人たちの行う性的な選択の中にしか現われないというわけなのである。愛は革命的なものでも、反動的なものでもない。そうではなくて、リビドーの社会的諸備給の反動的あるいは革命的な性格の指標なのである。男性と女性との(あるいは、男性と男性、女性と女性との)欲望する性的関係といったものは、人間の間の社会的諸関係の指標なのである。種々の愛と性欲とは、ここでは、社会野に対するリビドー備給における無意識の指数であり表示計なのである。愛されたり欲望されたりしている存在はすべて、社会の共同の言表行為の動因〔代行者】としての価値をもっているのである。

―アンチ・オイディプス、第四章 分裂分析への道、第五節 第二の積極的任務

 奏大雅――主人公との恋愛関係を通してみることによって、自分が持っていた負債について知るのだ。いや、この負債はそもそも存在していなかった、と。社会的関係性から見た時、自分のために――せいで――命を落としてしまった人に対しては無限の負債が発生してしまうように見えるだろう。だが、そのことについて負債の返却主がどうしたかったか、どのように感じていた=欲望していたか、といった人間的な社会的関係性においてそれを見るときに、その負債は虚構物であったと気づくのである。そして、その人間的社会的関係性を見つめる指標、視点こそが「愛」なのである。柊ハル、杏藤千和、夜月姫織、そしてクロは、‘‘夜”をめぐり、奏大雅との愛を通して負債の返却主――母親や育ての父親、あるいは奏大河――との間に負債など存在しないことに気づく。そして奏大河についても誰もが不幸になどなっていなかったことに気づくのである。世界は愛にあふれているのだ。負債は人間間の社会的関係が私たちに備給された仮初のものに過ぎなかったのである。

このようにして負債の永久の返済という抑圧された――コード化された生き方を脱するのである。ここにはもはや「悲しい死の歌」は流れていない。奏でられるのは「生の讃歌」、生きるということの肯定である。脱コード化の極限としての生へとたどり着くこと。そのプロセスが「さくら、もゆ。」において提示されているのである。生についてそのような「逃走線」を引くこと、それが「さくら、もゆ。」において行われていることである。

確かに生きていく上で、誰かへの負債は私たちにいつでもついて回る。だが、それは社会的関係によって作られた見せかけの負債なのである。常にその負債というコード化から逃げ回り、逃走線を引いて生きてゆくこと。脱コード化の極限を推し進めること。その提示という意味で「さくら、もゆ。」は「あなたのための物語」なのである。ここにおいては私たちの生は負債を返し続ける無意味な、無価値なものにはならない。その場所では「生の讃歌」が歌われている。

youtu.be

なぜ”夜‘‘を器官なき身体として捉えたのか

ここまで見れば‘‘夜”を器官なき身体として捉えたことの必要性が見えてくるだろう。‘‘夜”という器官なき身体が魔法によって再登記され直してゆくこと。この器官なき身体の分裂症的――革命的極の運動に死すらも望むほどの負債を抱えた諸々の登場人物が備給されることで、逃走線を引く価値ある生がもたらされたのである。つまり、自己犠牲的な感性――それは破滅的でさえある――を備えた奏大河といった人間が‘‘夜”を巡り――特に奏大河は幾つもの生を経由するのだからむしろこう呼ぶべきであろう。‘‘輪廻―Reincarnation”、と。――ながら自らの人生を歩んでいくそのプロセスを捉えるために‘‘夜”を器官なき身体として捉える必要があったのである。

「あなたのための物語」

では、結局「さくら、もゆ。」は何を私たちに教えてくれているのか。それは、逃走線を引くという生の形である。「逃走線」という言葉にネガティブなイメージを抱いてはいけない。負債という形でコード化によって私たちを「悲しい死の歌」によって誘うものからの‘‘逃走”なのである。セイレーンの歌声に惑わされてはいけないのだ。これは決して全てのことに無責任に生きろ、ということを言っているのではない。むしろ全くその逆であり、私たちを取り巻く負債のその内実を分析し、私たちの生に罪の刻印を押す社会的負債に惑わされずに責任をもって私たちの生を前に進めていくということなのである。生は常に逃走線という方向に向かって開かれている。

そのような意味で「さくら、もゆ。」は人生なのである。

 

「さくら、もゆ。」を読むためのガイド

「さくら、もゆ。」をプレイするにあたって参考になるものをいくつか挙げておく。

  1. 【考察】『さくら、もゆ。 -as the Night's, Reincarnation-』完全年表vitaaeternitatis.blogspot.com
  2. さくら、もゆ。感想【ネタバレ注意】note.com
  3. さくら、もゆ。人物相関図

    note.com

 

 1は、「さくら、もゆ。」の平行世界とその出来事の流れが簡潔に纏められていて、物語における各平行世界の関係などを理解する際にとても役に立つだろう。

2は、「さくら、もゆ。」における”夜‘‘の特徴や世界観などが箇条書きに纏められていて「さくら、もゆ。」の世界を把握するのに良い。また、各ルートごとのストーリーの概略もわかる。

3は、「さくら、もゆ。」では入り組んでいて把握するのに骨が折れる人物相関である。プレイ中に頭がこんがらがってきたら見ると良いかもしれない。

 終わりに

一通り書いたけれど、説明が下手だったり勘違いしている部分もあったりするかも。もしあったら申し訳ない。

最後に「さくら、もゆ。」についての記事を書いたのは1年半弱前になる。春休み期間中に急いで書いたのもあって結構稚拙なところもあるから改めて修正・加筆したほうがいいのかなとは思っている。今でもありがたいことにちょくちょくアクセスがあるから。

この記事は、「さくら、もゆ。」という物語――文学機械の総論的なもので各ルートに立ち入った話はあまりしてないから、暇があったらそういう話もしてみたい。例えば兎蛙あず咲と兎蛙智仁の間の近親姦とかヒトデナシの一族――芸術家の家系とかは面白いと思う。

ブックガイドと関連物

この記事を書くのに参照したものと「さくら、もゆ。」関連のものをいくつか挙げておく。

  1. ジル・ドゥルーズ、フェリクス・ガタリ、市倉 宏裕訳、「アンチ・オイディプス」、河出書房新社、1986
  2. 仲正 昌樹、「ドゥルーズガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義」、作品社、2018
  3. 小倉 拓也、「カオスに抗する闘い:ドゥルーズ精神分析現象学」、人文書院、2018
  4. 市倉 宏裕、「現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ―」、岩波書店、1986
  5. 千葉 雅也、「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」、河出書房新社、2017
  6. いろとりどりのセカイ ワールズエンド・トリロジー

    dlsoft.dmm.co.jp

  7. 漆原 雪人、異セカイ迷子の半透明とやさしい死神、星海社FICTIONS、2019

     

     

 1は、本記事で援用した概念での「器官なき身体」など様々な概念装置が登場する本であり、エディプスコンプレックスに批判的分析を加えたうえで精神分析と資本主義の関係を分析するものである。2は、その1に関する注釈本のようなものであり、また4は、1の要約のような本である。3は、ドゥルーズに関して芸術論的な視点から線を引く著作である。5についてもドゥルーズの骨格を知るのにとてもおすすめ。

6は、「さくら、もゆ。」のシナリオライターである漆原雪人先生がライターの同ブランドの作品である。FDもすべて込みなので買ってほしい(真紅かわいい)。7は、ネタバレを避けるために詳しくは書かないが6をプレイしたうえで読むとより面白いだろう。

*1:他にも‘‘夜”においてすべての平行世界のすべての時間の町の記憶が再生され続けている、といった‘‘夜”が持つ性格がある。記事における主題とは少しずれるので、詳細に立ち入らずアウトラインだけ述べておくと、これは器官なき身体の上に生まれた主体の系譜学的なものの再生だと考えられる。

*2:フロイトの「死への欲動」に似ているが、ここでは「生の欲動」に対する「死への欲動」という形の話をしているのではなく、欲望機械そのものにそうした性質がある、ということを意味している。

*3:となると、パラノイア的――ファシズム的極は太陽の時間となる。