あなたのための物語:「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」が引く逃走線
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- なぜ今改めて「さくら、もゆ。」について考えるのか
- 文学機械――「さくら、もゆ。」
- ‘‘夜”――器官なき身体
- 誰かに何かを負うということ――悲しき死の歌
- 逃走線――生の讃歌
- なぜ”夜‘‘を器官なき身体として捉えたのか
- 「あなたのための物語」
- 「さくら、もゆ。」を読むためのガイド
- 終わりに
- ブックガイドと関連物
なぜ今改めて「さくら、もゆ。」について考えるのか
2019年初頭の「さくら、もゆ。」の発売からもうすぐ二年が経つ。この二年の間に社会には様々な変化があった。2019年、その年には元号の平成から令和への変遷、さらには2020年、今年には世界的な新型コロナウイルスの流行により私たちは‘‘新しい生活様式”という名の、自由が制限された生活を強制されることとなった。このような社会状況において直面するのは、私たちの生活――人生がいとも簡単に崩れ去ってしまう、という事実である。自然の脅威という強大なものに対する人間の無力さ、無意味さ。しかし、そのような中であろうと私たちはただひたすらに生きていくしかないのでろう。
では、どのようにしてこの‘‘無意味さ”に立ち向かってゆくべきなのか。
「さくら、もゆ。」を流れる‘‘私たちの無力さ、あるいは人生の無意味に抵抗し、未来へと進んでいく”という通奏低音。「さくら、もゆ。」とは、常に新しいものへと開かれ続ける物語であり、‘‘無意味”な私たちがこの世界の中でなんとか生きてゆくその有様を教えてくれる。改めて「さくら、もゆ。」について考えるべき意義は、ここにこそ存在するのである。
そこで「さくら、もゆ。」をドゥルーズ=ガタリの概念装置と関係づけて読んでいくことにする。ではなぜ、ドゥルーズ=ガタリなのか。それは「さくら、もゆ。」の中で行われる自己犠牲=罪責を乗り越えて、自らの生を歩んでいくこと、つまり、無意味であった私の人生をあるがままに肯定すること。ドゥルーズ=ガタリが欲望の逃走線を引いたこととパラレルに、「さくら、もゆ。」はそのことを語るからである。
文学機械――「さくら、もゆ。」
「さくら、もゆ。」の構造において特筆すべき点は、大きく分けると二つ存在する。一つ目は、この物語においては語り手、すなわち物語の中で起こるすべての事象を把握しているような超越論的な主体の存在が不在であるということである。物語は常に一人称=主体の目線から語られ、決してそれが第三者の目線になることはない。このことによって、作中において常に場面が転換し、主体=語り手が入れ替わる。つまり、作中における物語の進行とともに語り手自身が自己形成されてゆくのである。
二つ目に着目すべき点は、「さくら、もゆ。」において各ヒロインのルート――あるいは平行世界と呼ぶべきであろうか――が自律運動を行うことによって――もちろんそれらは互いに影響しあうのだが――作品全体を構成していて、明確な、因果的な統一性を持たず、常に全体は部分(=各ルートにおける物語)によって再構成・再形成され続けるということである。因果的な統一性を「さくら、もゆ。」が持っていないということはどういうことか。このことは、‘‘夜”をめぐる現象のうちに強く表れている。「さくら、もゆ。」において中心的な場所を占める‘‘夜”あるいは‘‘夜の国”は、大別すると二つに分けられる。一つは、生前のましろが悲しい思いをしている芸術家の家系の子供たちのために作り出したものであり、これはましろの物理的――肉体的な死によって閉じられることになる。これを以後では初期‘‘夜”と呼ぶことにしよう。一方で、‘‘夜”は、もう一つ存在し、これは兎蛙あず咲の弟、兎蛙智仁に会うために作り出したものであり、これは初期の‘‘夜”とは区別されるものであり、これを以後では‘‘夜”と呼ぶことにする。時間的因果性を考えるならば、初期の‘‘夜”が閉じられてから‘‘夜”が作られるまでの期間において初期であれ兎蛙あず咲によって作り出されたものであれ「夜の国」そのものが存在していないのでなければならない。しかし、作中においてそうはなることはなく、未来においての出来事である‘‘夜”の生成は過去にも波及し、過去においても‘‘夜”が太陽の時間の裏側として存在してゆくのである。
……“過去”も“未来”も“現在”も。そんなものはあんまりにも関係がなく、すべてのひと達の“隣”に――あらゆる刻の“隣”に存在し、あらゆる刻と刻とを繋ぐ“夜の国”
―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
あるいは、魔法の代価として、‘‘夜”の女王あるいは”夜‘‘の王になることによってすべての時間世界、時間においてそれが現れること。
だからすべての時間は多角的に繋がっているし、現象の記録媒体である時間の中で、一度起きてしまった出来事は、あらゆる時代の“夜”の中にその影を落としてしまう。
―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
しかしこれら以上に時間的因果の破綻が象徴的になるのは、‘‘夜”あるいは‘‘夜”の女王(王)が存在していることによって、後期の‘‘夜”を作ることになる兎蛙あず咲、兎蛙智仁、そして奏大雅が一つの場所に集められるにも関わらず、一方で後期の‘‘夜”あるいはその女王、王が存在することの根本となる『さくら、もゆ。』は一つの場所に集められるという事象そのものに依存しているという事態である。
このことに象徴される時間的因果の破綻は物語そのものの破綻を意味するのだろうか。いや、これらはすべて作品を構成する諸部分―シーンが接続しあい、互いの効果、エネルギーを切断し、そしてその備給によって新たな世界を形成し直すことの現れであり、ここにおいて確定した一つの全体というものは存在するべきではないのである。統一的存在の不在という事態によって、すべての諸部分は等しく作品の中において価値を持つ。何か一つの統一的審級を持たないこと。そのことによってのみ差異が否定的契機をもつことなく、ただ‘‘ある”ことができるのである。存在しているのは常に断片的な部分であり、即ち、全体とは部分に過ぎないのである。
「さくら、もゆ。」は、語り手が常に自己形成し続ける、という点において、また、作品全体が平行世界という部分によって再構成され続けるという二重の意味において、形成、変化し続ける。これは、まさに絶え間なく接続と切断を行い生成変化をし続ける機械であり、ドゥルーズ=ガタリが「文学機械」と呼んだものに他ならない。
…文学機械においては、いずこにおいても、部分といわれるものはすべて次のようにして⦅つまり、対称的でない両翼、中断された方針、密封された箱、口のない壺、仕切られた隔室といったものとして⦆生み出されるのである。 ここにおいては、隣接しているものの間にさ隔たりがあり、この隔たりがまた〔否定の働きではなくて〕肯定の働きをするものなのである。部分は、いわば同じパズルの断片ではなくて、いくつかの違ったパズルの断片をなしているのである。これらの断片は、常に位置は定まってはいるが決して特定されない場所にそれぞれがいずれもむりやりに押し込まれ、これらの断片のきちんとはまらないふちやへりは、残りの断片と形を合わせるために、力ずくで折りまげられ、自由に形を変えられ、まるで屋根瓦のように相互に重ねて組み合わされているのだ。これこそ、すぐれて分裂気質の作品である。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第六節 全体と諸部分
...決して全体が見渡されるわけでもなく、眺める見地に統一性があるわけでもない。むしろ、そうした全体や統一があるとすれば、それはただ横断線の中にあるだけである。横断線とは、「途切れたり対立したりしている種々の断片〔列車のあちこちの窓から眺めた景色〕を近づけて結びつけたり、あるいは移し変えて一緒にしたりするために」、旅行者が夢中になって、窓から窓へと次々と連絡をつけている線のことである。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第六節 全体と諸部分
統一的――絶対的な主体を作中あるいはその構造において持たないことによって、「さくら、もゆ。」は一つの文学機械として罪のない許しを申し渡すのである。形式にとらわれることなく逸脱する流れ、脱コード化された作品の構成。「さくら、もゆ。」という文学機械はその構成において運動する文学機械のその有様そのものなのである。
‘‘夜”――器官なき身体
‘‘夜”とはどういうものであったか
「さくら、もゆ。」においてはほとんど全てのシーンが‘‘夜”という、太陽の時間――これは私たちが現に今生きている時間である――の裏側にある時間において展開される。「さくら、もゆ。」が持つ力、あるいはその意義を読み解くためには‘‘夜”の様態を把握すること、そしてそれがもつ意義を確認することは避けて通れないであろう。そこで、今一度‘‘夜”がどういったものなのかを確認する。
もうひとつの‘‘夜”の中では、肉体を持ち込むことができた者に限り――
頭で、心で、思い描いたすべての光景が形となって現れる。そういう性質を持つ刻の中に、“ゆめのねどこ”はある。」
ここはすべてが叶う不思議の国だ。(…)それはまるで、明晰夢。毎夜見る夢の光景を自在に、思うまま、操作できてしまえる感覚に良くよく似ている。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
“夜”……。
“夜の国”
ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある。終わってしまった命あるものは、この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
‘‘夜”とは、魔法という形で自分が思い描いたものを代償を払うことで実現することができる場であり、また新たに人が生まれ直すための経過点のような場所である。
「助けたいと願う愛する者たちから、いつまでも永遠に、憎まれ続ける」という代償によって「世界中の母親に何が世界で一番大切なのかを思い出させる」という欲望を叶えること。あるいは、「いつも一緒に笑い合い、生きていきたいと願い、その人生を支え、助け出した愛すべき人たちに、憎まれ、疎まれ、嫌われてしまう」という代償によって「‘‘夜”の女王を‘‘夜”の王へと書き換える=二人に幸せな未来を取り戻す」という願いを叶えること。そして、その他の願いとその代償。いずれにせよ、その過程において行われていることは‘‘夜”という場の上で願い=欲望が作動しているということである。私たちが今生きている世界では願ったところで到底かなえられない願いが存在する。例えば、亡くなった人を生き返らせる、存在そのものをなかったことにし書き換える。しかし、‘‘夜”の世界においては代償という形で支払いはあれど、すべて叶えられるのである。即ち、‘‘夜”において主体は、私たちは(代償という形で支払いがあるとはいえ)現実というものに束縛されることはない。「現実という原理」がなくなった世界。それが‘‘夜”が提示しているものである。では、このような‘‘夜”の在り方とそして‘‘夜”は生―死という輪廻の中で経過点という役割を持っているということをどのように捉えればよいのだろうか。‘‘夜”が持つ二つのアスペクト*1をつなぐもの、それがドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」の概念である。
器官なき身体
では、「器官なき身体」とは何であり、そしてそれはどうやって願いを叶える‘‘夜”と生―死の経過点たる‘‘夜”を結びつけるのか。
器官なき身体そのものの前にドゥルーズ=ガタリがどのように世界を、私たちを見ていたかを振り返る必要がある。
〈それ〉çaは作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで〈それ〉は作動している。(…)にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ〉leçaと呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械 des machines なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して。〔他の機械を動かし、他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産
ここで出てくる〈それ〉とはフロイトの言う Es であり、また機械とは工場にあるような機械だけではなく、自律的な運動をするようなものだと考えられる。
機械――口という機械、足という機械、あるいは思考する機械、さらには社会という機械。これらを欲望機械というのだが――は本質的に分裂的―革命的である。
欲望する諸機械は二項機械であり、二項規則⦅つまり、つながり体制⦆の下にある機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。(…)ということは、ここには常に流れを生産する機械<と>et、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをもつもうひとつの機械<と>etが存在しているということである。(<母乳―口>といった関係がそうである。)そしてまた、今度は逆に、始めの機械がもうひとつの別の機械の方に接続され、この機械に対して始めの機械が切断あるいは採取の行動をとることになる。したがって、二項系列はあらゆる方向に単系的線型状に〔多岐的ではなく〕のびてゆくことになる。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産
しかし、私たちの身体を振り返ってみれば、口、手足、脳といった欲望機械が分裂的に伸びてゆくことはない。私たちの欲望機械は有機体―充実身体―モル的身体として固定化された役割を担い続けている。ひとつの身体に折檻された欲望機械は、有機体―充実身体―モル的身体のその形態に不快を感じる*2
ところが、じつは、ひとつの純粋な流体が、切断されることもなく自由な状態にあって、ひとつの充実身体の上を流れ滑っているのである。種々の欲望する諸機械は、われわれの有機体を形成するものであるが、ところが、この形式生産する働きの只中において⦅この有機体が生産されてゆく働きそのものの中において、といってもいい⦆、身体自身は、有機体の形態に有機化されることに苦痛を感じるのである。つまり、別の形の組織化なら、あるいは全く組織化されないことなら何でもないが、まさに有機体の形態に有機化されることには苦痛を感ずるのだ。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産
まさにそのモル的ではない充実身体の上を流れてゆくもう一つの身体。欲望機械が非有機的――純粋な分子的身体、それがアントナン・アルトーがそう称した「器官なき身体」である。
そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないのだ。」種々の自動機械装置は一瞬にして停止し、それは非有機体的な塊りを出現させることになる。この塊りは、それまではこれらの自動機械装置が分節し作動させていたものにほかならない。この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものなのである。アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態〔手にふれられるような姿や形〕をとることもなく、またいかなる形象〔目に見えるような姿や形〕をなすこともなしに存在していたその時に、この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。この死には、モデルがないわけではない。じじつ、死の充実身体は、みずからは動かずして欲望を動かす〈不動の動者〉であり、このために欲望はこのことをも⦅つまり、死をも⦆また欲望することになるのである。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産
ここで大事なことは、器官なき身体は欲望機械が有機的――モル的であることに不快を覚えるのであって、欲望機械それ自体がその運動を止めることを志向する、ということではないということである。つまり、欲望機械が非有機的――純粋に分子的に運動している状態においては苦痛を感じない、ということである。器官なき身体は「非生産的なるもの」ではあるけれど、非有機的な欲望機械が接続的(生産的)総合されるまさにその時、その場所に存在し生産の過程に投入されるのである。即ち、
器官なき充実身体は、反生産の領域に属しているが、(…)やはり接続的綜合⦅すなわち、生産的綜合⦆のひとつの性格なのである。
―アンチ・オイディプス、第一章 欲望する諸機械、第一節 欲望する生産
これまでからわかるように、欲望機械と器官なき身体は互いに相反するものである。というのも、欲望機械は二項関係―接続的綜合によって接続/切断を繰り返しながら有機的につながっていくのに対し、器官なき身体は欲望機械が非有機的であることを目指すからである。つまり、器官なき身体は充実身体――モル的身体の状態にある欲望機械に不快を感じ、欲望機械を作動させその檻から解放し純粋に分子的な状態を目指すのだが、欲望機械の持つ分裂的な性質――二項的に次々に他の機械と接続されていくこと――によって欲望機械は不規則に接続され続け、逆に器官なき身体の緊張、苦痛を高めることになる。そこでこの欲望機械の分裂的運動を止め、ひとつの場所に留めようとするものが生じる。それがパラノイア機械である。
欲望する諸機械と器官なき身体との間に、明らかな戦いが起る。さまざまの機械がそれぞれに接続し、その機械がおのおのに生産を行って、そのすべてが運転音をたてることになること、このことが器官なき身体には耐え難いものとなるのだ。
パラノイア機械の発生は、欲望する諸機械の生産の進行と器官なき身体の非生産的停止とが対立するとき即座に起こることなのである。
欲望機械と器官なき身体が対立し、パラノイア機械が生じるのだが、その欲望機械と器官なき身体の間の矛盾が全くなかったかのごとく表現する「吸引機械」――「奇蹟を行う機械」が続くことになる。これは、器官なき身体の上に新しい器官機械――口や手足といった欲望機械――を上書きし、欲望機械と器官なき身体が和解することになる。
器官なき身体は欲望する生産に折り重なり、この欲望する生産を引きつけ〔吸引し〕、これを自分のものにする〔領有する〕。器官機械は、器官なき身体に引っかかり付着することになる。(…)こうして吸引機械が反撥機械の後に続きこれに代ることになる。あるいは、これに代る可能性が開けてくることになる。つまり、パラノイア機械の後に、奇蹟を行う機械が続くことになるのだ。
この器官なき身体に新たな器官機械を上書きする過程において、欲望機械、器官機械を器官なき身体の上にどのように書き込むか=登記、登録するか、という離接的登記を行うエネルギーを《ヌーメン》と呼んでいる。
あるいは、むしろ、ひとが欲望する生産の接続的「労働」をリビドーと呼ぶのであれば、われわれは、このエネルギーの一部が離接的登記のエネルギー《ヌーメン》)に変換するということを語っておかなければならない。(…)エネルギーのこの新しい形態をなぜ神聖なるもの⦅つまり、《ヌーメン》〔神霊〕⦆と呼ぶのか。器官なき身体は《神》ではない。まさにその反対である。しかし、器官なき身体が一切の生産を吸引し、これらの生産をすべてそれぞれに離接の中に登記することによって、一切の生産に対して、奇蹟を行う力を持った魔法の表面としての役割を果すことになるとき、この器官なき身体を遍歴するエネルギーは神聖なるものであるわけなのである。
ヌーメンの働きによって生じた新たな器官なき身体の上の配置からそれに対応する新たな主体が生じることになる。
「過程」ということばの意味を文字通り生かして事態を捉えれば、生産の上に登録が折り重なってくるわけであるが、この登録の生産そのものは、生産の生産によって生み出されてくるものなのである。同様に、この登録に続いて消費が起こってくるが、この消費の生産は登録の生産により、またこの登録の生産の中で生み出されてくるのである。ということは、主体の秩序に属する何ものかが、登記の表面の上に姿をみせてくるということである。ただし、この主体は、固定した一定の自己同一性〔身元〕をもたない奇妙な主体である。この主体は、器官なき身体の上をさまよい、常に欲望する諸機械の傍にあって、生産されたものからなるいかなるもの取り分を吸収するかによって自分が誰であるかを明確にしてゆくものなのだ。この主体は、いたるところで、自分が生成し転身することからその報償を享受し、みずから消費を終える事典において主体として生まれてくるのだ。だから、新たに消費を終えるたびごとに、主体はその時点において生まれ変わって現れる。
そして、新たな主体は登録され直した欲望機械のエネルギーのうち主体となるものを「消費のエネルギー《ヴォルタプス》」と呼ぶ。
生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が登録のエネルギー(《ヌーメン》)に変容したのと同様に、この登録のエネルギーの一部は消費のエネルギー(《ヴォルタプス》)に変容するのである。
こうして誕生した新たな主体及びその器官なき身体をドゥルーズ=ガタリは独身機械と呼んでいる。
こうして、パラノイア機械と奇蹟を行う機械に続いてその後に、新しい機械が現れてくるのだ。この機械は、欲望する諸機械と器官なき身体との間に新しい縁組を実現し、新たに人間を、つまり輝かしい有機体を誕生させるのであるが、この新しい機械を示すために、「独身機械」という名前を借りることにしよう。(…)ここにあるのは、この生産するものとしての第三の機械がもたらす残余としての和解なのだ。
器官なき身体としての‘‘夜”
‘‘夜”の在り方を器官なき身体として見ることはできないだろうか。なぜそのように器官なき身体と‘‘夜”を重ね合わせるのか、といった問題は今は問わないことにしておこう。
まず第一に考えることは、‘‘夜”とは、新たに人が生まれ直すための経過点のような場所であるということである。即ち、古い主体が‘‘夜”を経由して新たな主体へと生まれ直すのである。しかし、ただ死後の人間が新たな主体が形成される場所として‘‘夜”を安易に器官なき身体に重ねるわけにはいかない。‘‘夜”が器官なき身体と重なるのは次においてである。それは、‘‘夜”において新たな主体へと生まれ変わる際には、生前の記憶や経験といったものを‘‘夜”の世界において金貨、あるいは銀貨に変換し、そして銀貨で才能を、金貨で次の人生=新しい主体への切符を買うことができるからである。
ここの通貨は魂に刻み込まれた経験である。
そこここに設置してある小さな換金所でそれを金貨や銀貨に変えるのだ。
楽しかった思い出は金貨に変わる。
つらかった思い出は銀貨に変わる。
今回の人生をどう生きたかによって、選べる”次‘‘が多くなる。
(…)更にここで買えるものは切符だけではなかった。
次の人生などに持ち込める”才能‘‘や”感性‘‘や”性格‘‘などといった精神的(あるいは肉体的)優位性を購入できる。
―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
つまり、‘‘夜”という場所において前の人生=古い主体における記憶や経験といったもの――それはまさに文字通り器官なき身体にくっついているのである――が古き主体という身体から金貨や銀貨といった形で解放され、そしてそれらが新たな主体へと次の人生への切符としてその身体に新しく書き込み直されるのである。この一連のプロセスは、器官なき身体の上で行われる主体の総合のプロセスに他ならない。
では、‘‘夜”において行われる魔法及びその代償の支払いについてはどのように解釈するべきなのか。それを考えるためには、器官なき身体が欲望機械を動かす、という意味においての器官なき身体の二つの極――分裂症的―革命的極とパラノイア的―ファシズム的極――を考えなければならない。先に触れたように、器官なき身体の上では分裂的に広がろうとする欲望機械とそれに抵抗し、一つのものに固執しようとするパラノイア機械がシーソーゲームを行っている。
われわれは、一切が器官なき身体の上で起るものと考えている。ところが、この器官なき身体は、いわば、二つの顔をもっている。(…)物理学には、二つの方向がある。そのひとつは、モル的な方向であり、種々の大数や種々の群現象に向かう。いまひとつは、分子的な方向であり、逆に種々の単一体に没頭する。つまり、距離をへだてたり次元を異にしたりしている単一体の間に生ずる相互作用やつながりに没頭する。
―アンチ・オイディプス、第四章 分裂分析への道、第一節 社会野
このシーソーゲームが分裂的な方向を向いているとき、器官なき身体の上で生じた主体は「現実という原理」に依ることなく主体は変化する。
自閉症や感情の鈍麻については、つまり乏しい実在を最後には喪失して人生とのつながりを欠如することについては、すべてのことが語られた。分裂症患者たち自身がまた一期待された病状の鋳型に嵌まり込むことを求めて、一切を語った。暗黒の世界、増大する荒地。この荒地には原子工場が建てられ、孤独な機械が海浜に唸っている。ところが、器官なき身体がまさにこうした荒地であるのは、それがいわば分解不可能な不可分の距離であるからなのである。分裂者はいたるところに存在するために(つまり、実在するものが生産されるところには何処にでも、いや、生産されたところ、生産されるであろうところには何処にでも、存在するために、この不可分の距離を飛び移ってゆくのだ。確かに、実在はひとつの原理であることをやめたのである。かつてはこうした原理に従って、実在するものの実在は、分割可能なる抽象量として定立されていた。そしてこれに対して、実在するものは、それぞれに別の性質をもった種々の個体の中に、あるいははっきりと質を異にする種々の形態の中に配分されていた。ところがいまや、実在するものとはひとつの生みだされるものである。つまり、種々の度合の強度量の中に種々の距離を包み込んでいる、ひとつの生産物なのである。
器官なき身体と重ねた‘‘夜”において行使される魔法及びその代償の支払いについて、それが器官なき身体の上のどのような運動なのか。そこで振り返るのは文学機械の部分でみた「さくら、もゆ。」における時間的因果の破綻である。自身を‘‘夜”の女王あるいは王へと書き換える魔法。これはまさに‘‘夜”の中で行使された魔法の中でも最も象徴的なものだが、‘‘夜”を器官なき身体の分裂症的――革命的極ととらえた時にわかることは、もはやここにおいて時間的因果の破綻という「現実という原理」に即した刻印を押しつける必要はないということである*3。魔法とは‘‘夜”という器官なき身体がその分裂症的な極に従い、内包する諸々の‘‘夜”を構成する部品を改めてその身体に書き込み、再構成する運動そのものであり、その行使に必要である代償とは、器官なき身体への再書き込みにおけるヌーメンの役割と考えるのである。魔法によって‘‘夜”――器官なき身体が「現実という原理」に捕らわれることなく因果すらも含めたその身体を常に新たな‘‘夜”へと変えてゆくこと。
‘‘夜”――器官なき身体のその運動の様相が何をもたらすのか。それはまさに、何故‘‘夜”を器官なき身体として捉える必要があったのかという問題と深く関わっている。
誰かに何かを負うということ――悲しき死の歌
物語の中で‘‘夜”――器官なき身体の上で一体何が起こったのか。
「さくら、もゆ。」という物語で現れる登場人物達についてまず述べねばならないのは、誰もかれもが自己犠牲という誰か、何かに対する負債を持っている、ということであろう。柊ハル、杏藤千和、夜月姫織、クロ、ひいては奏大雅――これは主人公の方である――まで誰もが誰か、何かに対して大きな自己犠牲という負債を抱えている。そしてその自己犠牲の返済に時として自分、あるいは自分の愛する人さえをも捧げようとする。
大切な命を取り戻すんだ。
それが私の‘‘夢”だった。
(…)だからあなたの‘‘心臓”を、‘‘夜”に捧げてしまおうと思っていたけれど゙‥‥‥。
(…)自分の‘‘夢”を叶えるのだから、自分の‘‘命”をもやさずしてどうするというのか。
―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
「お願い。なんだってする。どんなことだってがまんする。私の全部を、あげるから。だから……お願い。お願いします」
どうか、神さま、ナハトに大切なお友だちを返してあげて……。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
「おじさん……
私たちは、出会わなければよかった」
‘‘大切な人に起こる未来の不幸を肩代わりすること”
それが、幼いハルの願った‘‘魔法”だった。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
――この命そのものが疫病神だ。
――周りの人たちを。
――何よりも大切だと想うすべての人たちを。
――ぼくは手当たり次第に不幸にしてしまう。
――この命は、この存在は、そういうふうにできてしまっている。
――だから死にたい。最大最悪の罰を受けてから、死んでしまいたい。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
「……わたしなんて、生まれてこなければ、よかった」
そうだ。大雅……。ねえ、大雅。わたしたちは、出会わなければよかったんだよ。―さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-
皆が自己さえをも殺してしまうような大きな負債。返しきることができないほどの負債。その負債の存在が勘違いであるのか、本当にその返済主が求めているのかは返済をする主体にはわからないけれど、ただ確かに彼―彼女らの中には家族、あるいは家族代わりのものに対する負債が存在している。大事なことは、その負債によって生きるということ、つまり、生きる主体の欲望機械の運動がその負債の返却という形で規定されてしまっている――コード化されてしまっている、ということである。自分が奪ってしまったナハトとソルの暮らしを返すこと、自分の命を母親へと返すこと、あるいは、おじさん=奏大河との出会いをなかったことにすること。自分の人生を負債の返済という形で消費しつくしてしまう抑圧された生き方。問題になっているのは、そこには「悲しい死の歌」が、「最も崩壊した歌」しか流れていないということである。では、「生の讃歌」をどのように奏でればよいのだろうか。あるいは、私たちが行きつくところには「悲しき死の歌」しか流れていないのだろうか。
逃走線――生の讃歌
私たちは誰もが誰かに対して負っている(あるかもわからない)負債を永遠に返していくことしかできないのか。はたまた、どこかにそうではないのものがあるのか。そのことに関する一つの答え、プロセスを「さくら、もゆ。」は提示している。
「さくら、もゆ。」は他の何の物語でもなく、まず第一に‘‘幾千の夜を越え想い繋ぐ”「愛」の物語なのであり、「愛」とは負債がどのようなものであるかに関する指標なのである。
フロイトは、決して『W・イェンゼンの《グラディヴァ》における妄想と夢』〔一九〇七年〕におけるよりも、先には進まなかったのだ……。要するに、社会野に対するわれわれのリビドーの諸備給は、反動的なものであれ、革命的なものであれ、余りにもみごとに隠されている無意識であるので(あるいは、前意識的備給によって余りにも巧みに蔽われているものであるので、といってもいい)、恋人たちの行う性的な選択の中にしか現われないというわけなのである。愛は革命的なものでも、反動的なものでもない。そうではなくて、リビドーの社会的諸備給の反動的あるいは革命的な性格の指標なのである。男性と女性との(あるいは、男性と男性、女性と女性との)欲望する性的関係といったものは、人間の間の社会的諸関係の指標なのである。種々の愛と性欲とは、ここでは、社会野に対するリビドー備給における無意識の指数であり表示計なのである。愛されたり欲望されたりしている存在はすべて、社会の共同の言表行為の動因〔代行者】としての価値をもっているのである。
―アンチ・オイディプス、第四章 分裂分析への道、第五節 第二の積極的任務
奏大雅――主人公との恋愛関係を通してみることによって、自分が持っていた負債について知るのだ。いや、この負債はそもそも存在していなかった、と。社会的関係性から見た時、自分のために――せいで――命を落としてしまった人に対しては無限の負債が発生してしまうように見えるだろう。だが、そのことについて負債の返却主がどうしたかったか、どのように感じていた=欲望していたか、といった人間的な社会的関係性においてそれを見るときに、その負債は虚構物であったと気づくのである。そして、その人間的社会的関係性を見つめる指標、視点こそが「愛」なのである。柊ハル、杏藤千和、夜月姫織、そしてクロは、‘‘夜”をめぐり、奏大雅との愛を通して負債の返却主――母親や育ての父親、あるいは奏大河――との間に負債など存在しないことに気づく。そして奏大河についても誰もが不幸になどなっていなかったことに気づくのである。世界は愛にあふれているのだ。負債は人間間の社会的関係が私たちに備給された仮初のものに過ぎなかったのである。
このようにして負債の永久の返済という抑圧された――コード化された生き方を脱するのである。ここにはもはや「悲しい死の歌」は流れていない。奏でられるのは「生の讃歌」、生きるということの肯定である。脱コード化の極限としての生へとたどり着くこと。そのプロセスが「さくら、もゆ。」において提示されているのである。生についてそのような「逃走線」を引くこと、それが「さくら、もゆ。」において行われていることである。
確かに生きていく上で、誰かへの負債は私たちにいつでもついて回る。だが、それは社会的関係によって作られた見せかけの負債なのである。常にその負債というコード化から逃げ回り、逃走線を引いて生きてゆくこと。脱コード化の極限を推し進めること。その提示という意味で「さくら、もゆ。」は「あなたのための物語」なのである。ここにおいては私たちの生は負債を返し続ける無意味な、無価値なものにはならない。その場所では「生の讃歌」が歌われている。
なぜ”夜‘‘を器官なき身体として捉えたのか
ここまで見れば‘‘夜”を器官なき身体として捉えたことの必要性が見えてくるだろう。‘‘夜”という器官なき身体が魔法によって再登記され直してゆくこと。この器官なき身体の分裂症的――革命的極の運動に死すらも望むほどの負債を抱えた諸々の登場人物が備給されることで、逃走線を引く価値ある生がもたらされたのである。つまり、自己犠牲的な感性――それは破滅的でさえある――を備えた奏大河といった人間が‘‘夜”を巡り――特に奏大河は幾つもの生を経由するのだからむしろこう呼ぶべきであろう。‘‘輪廻―Reincarnation”、と。――ながら自らの人生を歩んでいくそのプロセスを捉えるために‘‘夜”を器官なき身体として捉える必要があったのである。
「あなたのための物語」
では、結局「さくら、もゆ。」は何を私たちに教えてくれているのか。それは、逃走線を引くという生の形である。「逃走線」という言葉にネガティブなイメージを抱いてはいけない。負債という形でコード化によって私たちを「悲しい死の歌」によって誘うものからの‘‘逃走”なのである。セイレーンの歌声に惑わされてはいけないのだ。これは決して全てのことに無責任に生きろ、ということを言っているのではない。むしろ全くその逆であり、私たちを取り巻く負債のその内実を分析し、私たちの生に罪の刻印を押す社会的負債に惑わされずに責任をもって私たちの生を前に進めていくということなのである。生は常に逃走線という方向に向かって開かれている。
そのような意味で「さくら、もゆ。」は人生なのである。
さくらもゆは文学らしい。人生だと思って書いた(?
— 漆原雪人 (@urusibara_yuki) 2020年11月16日
「さくら、もゆ。」を読むためのガイド
「さくら、もゆ。」をプレイするにあたって参考になるものをいくつか挙げておく。
- 【考察】『さくら、もゆ。 -as the Night's, Reincarnation-』完全年表vitaaeternitatis.blogspot.com
- さくら、もゆ。感想【ネタバレ注意】note.com
- さくら、もゆ。人物相関図
1は、「さくら、もゆ。」の平行世界とその出来事の流れが簡潔に纏められていて、物語における各平行世界の関係などを理解する際にとても役に立つだろう。
2は、「さくら、もゆ。」における”夜‘‘の特徴や世界観などが箇条書きに纏められていて「さくら、もゆ。」の世界を把握するのに良い。また、各ルートごとのストーリーの概略もわかる。
3は、「さくら、もゆ。」では入り組んでいて把握するのに骨が折れる人物相関である。プレイ中に頭がこんがらがってきたら見ると良いかもしれない。
終わりに
一通り書いたけれど、説明が下手だったり勘違いしている部分もあったりするかも。もしあったら申し訳ない。
最後に「さくら、もゆ。」についての記事を書いたのは1年半弱前になる。春休み期間中に急いで書いたのもあって結構稚拙なところもあるから改めて修正・加筆したほうがいいのかなとは思っている。今でもありがたいことにちょくちょくアクセスがあるから。
この記事は、「さくら、もゆ。」という物語――文学機械の総論的なもので各ルートに立ち入った話はあまりしてないから、暇があったらそういう話もしてみたい。例えば兎蛙あず咲と兎蛙智仁の間の近親姦とかヒトデナシの一族――芸術家の家系とかは面白いと思う。
ブックガイドと関連物
この記事を書くのに参照したものと「さくら、もゆ。」関連のものをいくつか挙げておく。
- ジル・ドゥルーズ、フェリクス・ガタリ、市倉 宏裕訳、「アンチ・オイディプス」、河出書房新社、1986
- 仲正 昌樹、「ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義」、作品社、2018
- 小倉 拓也、「カオスに抗する闘い:ドゥルーズ・精神分析・現象学」、人文書院、2018
- 市倉 宏裕、「現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ―」、岩波書店、1986
- 千葉 雅也、「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」、河出書房新社、2017
-
いろとりどりのセカイ ワールズエンド・トリロジー
- 漆原 雪人、異セカイ迷子の半透明とやさしい死神、星海社FICTIONS、2019
1は、本記事で援用した概念での「器官なき身体」など様々な概念装置が登場する本であり、エディプスコンプレックスに批判的分析を加えたうえで精神分析と資本主義の関係を分析するものである。2は、その1に関する注釈本のようなものであり、また4は、1の要約のような本である。3は、ドゥルーズに関して芸術論的な視点から線を引く著作である。5についてもドゥルーズの骨格を知るのにとてもおすすめ。
6は、「さくら、もゆ。」のシナリオライターである漆原雪人先生がライターの同ブランドの作品である。FDもすべて込みなので買ってほしい(真紅かわいい)。7は、ネタバレを避けるために詳しくは書かないが6をプレイしたうえで読むとより面白いだろう。
水素原子と2次元調和振動子の非自明な対応関係
水素原子の固有値問題において,その動径方向の固有方程式はは方位量子数として,
であった.
この微分方程式を解けば水素原子の動径方向の波動関数と水素原子のエネルギー固有値が求められる.
このような方法による水素原子の固有値問題の解法は多くの教科書に載っている.水素原子の解法にはこの方法に限らず様々な別解があるが,講義でやって面白かったので,水素原子の動径波動方程式と2次元調和振動子のScrödinger方程式の関係を調べることによって水素原子の固有値問題を解く方法*1をまとめておく.
2次元調和振動子の角運動量代数
本論に入る前に2次元調和振動子の固有値問題を系がもつ対称性を用いた方法で解くことにする.
角運動量演算子と生成消滅演算子
2次元調和振動子のHamiltonian
について,生成消滅演算子は,
とし,系全体の数演算子を
と書くことにする.
このように約束したうえで,まずは角運動量
を生成消滅演算子を用いて表してみる.
生成消滅演算子の定義を ,について逆に解けば
となるから,これを上の角運動量の定義に代入すればいい.先に各項を計算することにすると,
となるから結局は,を用いて
と表せることになる.ここで生成消滅演算子の交換関係
などを利用した.
このように書き表したについて,全体の数演算子との交換関係を確かめておこう:
ここで,
となることを利用した.(これは生成消滅演算子の交換関係から即座に従う.)
2次元調和振動子の角運動量代数
さて,少し唐突であるが,演算子,を次のように定義する.
これらの演算子, はと同様にと可換であることが先の計算のように愚直に計算することで確認できる.
そこでさらに,, , の間の交換関係を確認することにする.
まず,との交換関係を確認しよう:
つまり,
であることが分かった.ほかの組み合わせについても同じく計算することで,
となることがわかる.
これらの交換関係から,, , は角運動量代数を満たすことが期待できる.そこで,を計算してみよう:
これまでに得た交換関係などをまとめて書くと,
となる.そこで,
と, , と角運動量代数とを対応させることができた.
2次元調和振動子のエネルギー固有値
角運動量代数との対応関係を利用して2次元調和振動子のエネルギー固有値を求める.
ととの同時固有状態は,
という固有方程式を満たし,それぞれ,の固有値を持つのであった.
即ち,対応関係よりとは,
という固有方程式を満たし,それぞれ,の固有値を持つ.
さて,がとのどれとも可換なことを考えれば,これら3つの同時固有状態をとることができて,について固有方程式
を満たし,その固有値をと置くことにしよう.この固有方程式を満たすことを考えると,がのみの演算子であることから,の固有方程式は
とも書ける.つまり,との間には,
の関係が満たされなければならない.これを解くと,
となるが,でなければならないことから,とわかる.
以上より,2次元水素原子のエネルギー固有状態は,固有方程式
を満たし,その固有値はである.
縮退度および角運動量とエネルギー固有値の関係
の固有方程式は,
を取りうることがわかる.の固有値は,であったからを用いての固有値は,
と書き直せる.すなわち,2次元調和振動子のエネルギー固有値がであるとき,角運動量のどれかを持っていて,重に縮退している.
この関係を縦軸にを取り,横軸にを取って表すと,
となる.これを式で表せば,
と表せる.
水素原子と2次元調和振動子の対応関係
2次元調和振動子のScrödinger方程式
極座標表示した2次元調和振動子のScrödinger方程式は,
である.これについてと変数分離された解を想定し,これを式に代入し変数分離すると,
となり,各変数ごとの微分方程式を得ることができる.についての微分方程式は即座に解くことができて,
となる.さて,について,一周させると系は同じ状態に戻るはずであるからとした時にが成立していなければならない.ゆえに,でなければならないことがわかる.
よって,最終的にScrödinger方程式は,
となる.
なお,ここで出てきたは角運動量を識別する量子数であり,上で2次元調和振動子を代数を用いて解いた際に出てきたと同じものである.実際,極座標で表した角運動量演算子の成分は,であり,これについては明らかに固有関数であり,その固有値はである.
水素原子の動径波動方程式
動径波動方程式
について,と変数変換し,と書くことにする.ここで,は長さの逆次元を持つ適当な定数である.
であることに注意すると,
となるので,この変数変換で波動方程式は,
と書き直される.
水素原子と2次元調和振動子の対応関係
2次元調和振動子のScrödinger方程式(2)と水素原子の動径波動方程式(1)を見比べると,角運動量,エネルギーを持った水素原子の固有状態に対応して,でなおかつ,角運動量がでエネルギーがであるような2次元調和振動子が存在していることがわかる.
水素原子のエネルギー固有値
2次元調和振動子のによる解法の最後で求めたように2次元調和振動子のエネルギー固有値と角運動量は,
のように分布するのであった.*2
角運動量,エネルギーを持った水素原子の固有状態に対して,かつ,,角運動量,エネルギーの2次元調和関数が存在していくので,これらを(1')式に代入すると,水素原子のエネルギーと角運動量が満たしながら動くべき式がわかる:
これをについて解くと,
となる.ここで,と書くことにしよう.すると任意の自然数について,となるようなの組み合わせはいつでも考えることができて,それはである.方位量子数が指定されたときに磁気量子数についての重に縮退していることを思い出せば,が指定されたときに系は,
重に縮退していることがわかる.
以上より,水素原子のエネルギー固有値は,
であり,で指定される固有状態にそれぞれにに縮退していることが分かった.
動径波動関数
水素原子のエネルギー固有値は既に求め終わったが,最後に動径波動関数も求めておこう.
簡単のため水素原子の基底状態(1s orbital)の動径波動関数を求めることにする*3.
第一励起状態,つまりのとき,であり,この時,
より,各振動数で,角運動量,エネルギーである調和振動子が対応する.*4これは第一励起状態にある2次元調和振動子であり,その解は
の線形結合で与えられる.角運動量がであることを踏まえると,第一励起状態の波動関数として,
つまり,
を取ればよいことがわかる.よって,変数分離した際の動径部分の波動関数は,
である.
水素原子の動径波動方程式(2)と2次元調和振動子のScrödinger方程式(3)の対応関係より,動径波動関数はと同じ解をもつので,
となる.ここで,であったことと,であったことを思い出せば,最終的に1s orbitalの動径波動関数は,
と求められた.
「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」のシステム論①
はじめに
“夜”の時間.「さくら、もゆ。」が示すその時間は,物語の大部分を占めている.いや,むしろこう言うべきかもしれない.「さくら、もゆ。」は“夜”を巡る物語である,と.実存の在り方をとらえることで,「さくら、もゆ。」は永劫回帰の祈りの位相を持つことは既に話した.しかし,そのような一面的な物語なのだろうか.まだ捉えきれていない位相,面があるのではないだろうか.固定された構造を,逆に生成の場としてみること.そうすることで「さくら、もゆ。」の持つ新たな位相が見えてくるのではないだろうか.
前回→
時間論としての「さくら、もゆ。」
ここでは,「さくら、もゆ。」の”夜”について時間論的な目線から読み解いていきたい.
生ける現在-太陽の時間-
生きる現在,太陽の時間は,今まさに我々が感じている時間であると考えていい.それは,我々が何かを行うときにそれによって立たなければならない時間である.例えばこんな光景を考えてみよう.目の前にリンゴが一つある.それを見て私やあなたはこう思うかもしれない.「なぜこんなところにリンゴが?」あるいは,「あ.リンゴがある.おいしいかな?」と.何を思うかはその人次第であるけれど,何を思うにせよ,私たちは“今”という起点抜きにその思考をすることは不可能であろう.いわば今を生きる私の基盤,大地になるような時間.それが生きる現在,太陽の時間である.それが「さくら、もゆ。」の中で明確に語られているわけではないが,“夜”との対比として与えられる通常の時間であるから,そう考えてよいだろう.
「とにかく“夜”じゃないほう.“太陽の時間”の中で,いったい何があってそうなったのかは,わからないけど……」(「さくら、もゆ。」)
このような,生きる現在として与えられる太陽の時間は,ベルクソンやドゥルーズが「差異と反復」で述べている,「第一の時間」として考えていいだろう.
第一の時間は「生ける現在」における時間の総合を扱う現在論である.そこではハビトゥス=習慣的なものの成立が能動的な総合の「土台(foundation)」として論じられる.(「瞬間と永遠」)
この領域は,“今”に依拠することで,同一性を基準とするヒエラルキー的な空間である.その内では,同一性からの距離という形で評価され続ける.このような同一性の在り方は前に話したニーチェの話と関わりを持ってくる.
ただし,生きる“今”というものはある一点として与えられるものではないのではないだろうか.それは本当は“流れ”のようなものなのではないだろうか.このことを詳しく見るために,音楽になぞらえて時間を見てみる.音楽,あるいはある曲は,点としての音の集まりではない.それは合成音声のもつある種の不自然さが示しているとおりである.可能な限り小さく区切った音声を繋げたとしても,やはり私たちが聞くとどこか不自然さが残るものになってしまう.この不自然さが時間ひいては存在のもつ新しい位相を開示する.合成音声の例からわかることは,音は不連続なものの集まりではなく,抑揚や発音といった要素が存在する連続的なものである,ということである.曲を短い要素に分割し,それを再びつなぎ合わせたとしてもそれは元の曲にはならないだろう.分割という行動を通して私たちは既に連続的な要素を捨ててしまっている.すなわち,この分割という操作は不可逆である.そこで,不連続なものの集まりではない,このような連続性を「潜在性」(virtualitè)とベルクソン=ドゥルーズは呼ぶ.そして分割され,不連続になった存在様態を「現在化」(actual)と呼び区別する.現在化されてはいないが,実在している(rèel)もの,それが潜在的なものである.そのような潜在的なものは,現実化されたものをその実在性で支えるものと見てもよいだろう.では,時間に対してもこのような議論が当てはまるのではないだろうか(またそれはもっと裾野を広げて個物存在に対しても当てはまるのではないだろうか).
第二の時間-停滞した”夜”-
このような時間の連続性に関する議論から得られる生きる現在に対してのもう一つの時間.それは生ける“今”を潜在的であるが,実在しているという意味で現在を支える時間である.時間は連続的であって点であるわけではない.そのような“流れ”としての時間について考えてみよう.
潜在的な時間の“流れ”.そこにおいて時間は,その連続的な在り方から“今”という定点を持つことなく無限の過去へと結びついていく.“今”を先端とし,無限に広がっていく,基盤としての時間.第二の時間として語られるそのような時間においては,“今”は特別なものではない.それは,過去の一つの断片という意味しか持ちえない.過去の差異をその無限性として含んでいること.それは生ける現在での習慣化を土台として支えていくものである.そのような時間はベルクソン=ドゥルーズが,「純粋記憶」あるいは「第二の時間」として呼ぶものである.潜在的な時間のその潜在性が際立って現れるのが記憶に関するベルクソン=ドゥルーズ議論である.現在にいる私たちは記憶についてどのように考えるだろうか.単純に考えれば,記憶,あるいは過去とは私の“今”の集合である.私が生きる“今”ここにある時間がそのまま積み重なったもの,それが記憶に対する一番簡単な見方である.しかし,私の“今”の集合体であるならば,私の生を超えた範囲にある時間に対してはどう説明するべきなのだろうか.私たちは,生きていない生より前の時間を体験していないが,しかし確かにあるものとして知っている.親がいてそのまた親がいてということを私たちは無意識に知っている.あるいは,このような例でもいいだろう.スペインのサグラダファミリア.その建設にかかわる人は,自分たちが体験していない,しえない時間を無意識的に見据えて建設を行っている.どちらの例にせよ,私たちはつながれた記憶としてそれを体験していないけれども,“知っている”のである.このような“知っている”ということは,記憶に関して一つのことを教えてくれる.つまり,記憶は“今”の積み重ねではなく,連続的な,潜在的なものでなければならないということである.それをベルクソン=ドゥルーズは「純粋記憶」と呼ぶ.第二の時間あるいは純粋記憶と指されるものは,いうなれば“過去”のことだと考えればよい.しかし,ここでいう“過去”とは現在からみた時間としての「過去」ではない.“過去”とは定点なき時間の流れとしての“過去”のことである.この議論は記憶の立ち上がり方に一見すると奇妙な結論を導き出す.もし記憶が“今”が過ぎ去ったものの二次的な構築物であるならば,それは“今”,つまり生ける現在の類似物である.そこに存在論的な差異はなくなってしまう.しかしそれでは第二の時間と生ける現在との間には潜在的なものと現実化されたものという存在論的な差異があることに反してしまう.ゆえに,記憶は“今”の二次的構築物ではなく,記憶は現在と同時に現れ,そして記憶が優位であるように存在している.そしてその“過去”は一般性(=現実化)の度合いを様々にしながら“今”の成立と同時に繰り返される.これを「収縮」と呼ぶのだが,このような“過去”の収縮の度合いはベルクソンの示す,頂点を“現在”の平面と共有する逆向きの無限に伸びる三角錐で示される.この“今”と“過去”の無限の精神的な反復.それは円環と表現される
このようなベルクソン=ドゥルーズの語る第二の時間は,「さくら、もゆ。」では,“夜の国”とよばれているものに他ならない.“夜”. “夜”とは「時間の墓場」である.終わってしまった時間それは過去と言ってもよい.
“夜の国”とは時間の墓場のような場所でもある.誰かがそう語ってた.過ぎ去り終わってしまった時間もまた,時間という空間そのものを記憶媒体のようにして,永遠と“夜”に記録されているのだという.(「さくら、もゆ。」)
しかし,その過去としての「時間の墓場」は単なる太陽の時間の集積物という意味を持たない.それは,太陽の時間とは本質的に異なるものとして描かれてゆく.“夜”には,影――死者となり次の時間を選ばなかった者たち――が住んでいる.影は“記憶”を繰り返す.
これは,記憶だ.
いつか遠い時の中,この町であった出来事が繰り返し,繰り返し,ここに再生され続けている.(「さくら、もゆ。」)
「改めるけれど,そのときクロに,今日,このとき私たちが話したことを知らせたいんだ――“夜”の中に記録され続けているのだろう,私たちが話しているこのときを,クロに見せたい」(「さくら、もゆ。」クロ)
このような“夜”における記憶の繰り返し.それは,“今”とを無限に反復する第二の時間のイマージュではないだろうか.太陽の時間=現実とは異なる存在が記憶として反復され続けること,これは第二の時間が描く精神的反復と言っていい. そして,“夜”に巣食う“悪夢”を退けて人類を救ったということは,いわば“夜”の時間が太陽の時間を生きる人の根拠になっているといってもよい.
力を合わせ,“夜の国”で人々の心を食い荒らそうとしていた,過去最大にして最凶最悪の“悪夢”を退けて――(中略)
彼女らが関わることを余儀なくされた“人類滅亡を阻止するための物語”は,事実上ハッピーエンドということになったのだ.(「さくら、もゆ。」)
そういう純粋な時間ではない物語的な位相でも,第二の時間と“夜”は重なっていくようにも見える.
第三の時間-躍動する”夜”-
しかし,作品中では“夜”が再生し続けるものは「これまでにおこってしまったこと」のみに限られていない.そこには,「これから先におこること」も含まれている.つまり,“夜”は第二の時間―過去―とは全く異なる時間をそのうちに含んでいる.このことについてどのように考えるべきなのだろうか.“夜”が持つこの“未来”という時間が,ドゥルーズ=ベルクソンの時間論にとっても重要な時間となっている.ひとまずこのことは置いておいて,ドゥルーズ=ベルクソンの時間論の話をしよう.
さて,ここで考えてほしいのは,このままでは第二の時間によって与えられる時間は“現在”と“過去”とを永遠とループし続けてしまうということある.時間とは本来過去から未来へと流れていくものであろう.では,この無限の円環を打ち破り,先へ時を進めるものはなんなのか.そして,もう一つ重要な点が一つある.第二の時間は第一の時間の土台として必然的に要請されるものであった.しかし,このような根拠の根拠を求めることによって私たちは無限後退に陥ってしまう.つまり,どこかに脱根拠化される根拠があるのである.これはウィトゲンシュタインが色見本のケースで語っていることとパラレルと考えてもよいだろう.
われわれのパラドックスは,どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのだから,規則は行動の仕方を決定することができない,というものであった.そうして答えは,どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのであれば,矛盾させることもできるだろう,だからここには一致も矛盾もない,というものであった.
このように考えていくときには,われわれは次々と解釈を行っている――それぞれの解釈が,その背後にまたもや存在するさらにもう一つの解釈のことを考えつくまで,すくなくとも一瞬は,われわれを安心させるかのように――という事実だけからしても,ここに誤解があることは容易に見て取れる.というのは,実はこのことが示しているのは,解釈ではないような規則把握があって,その把握の仕方は,われわれが何を「規則に従っている」と言い,何を「規則に反している」と言うか,ということの内に,規則の適用のその都度,自ずと示される,ということだからである.
それにもかかわらず,規則に従った行動はそれぞれが規則の解釈である,と言いたくなる傾向がある.だが,規則の一つの表現を別の表現で置き換えることのみを「解釈」と呼ぶ方がよくはないか.(「哲学探究」201節)
ここでウィトゲンシュタインが語っていることは,言語ゲームのルールを考えるときに,そのルールが先んじて言語ゲームが成立するのではなく,言語ゲームが存在していることによってかろうじてそのルールが成立している,ということである.解釈とは行動とルールの関係を決めるルールのことである.行動とルールを解釈によって補うことは,解釈を決めるルールという形で,また新たなルールを誘発する.ゆえに,ルールの無限後退が起きてしまう.つまり,そうではないのである.どこかにルールによっては語りえないルールの使われ方が存在し,それがルールという根拠を見せるのである.このような「エーベン」としかいいえないような,脱根拠としての根拠.それが言語ゲームと呼ばれるものである.
無限に続く階段を止め,エーベンと宣言すること.本当に難しいのはそのようなことではないだろうか.そして,第二の時間に対してもそうあるべきではないだろうか.
第二の時間の無限の円環を解体し,その流れを先へと進める絶対的なもの.それは,決して経験され得ない,超越論的なものである.私たちはそれを語ることができない,ただ時間があることそれによってのみ条件として示されているものである.
第二の時間に続く第三の時間のこのような経験されないという意味で形式的で無根拠性をどのように取り出せばいいのだろうか.
また,他にも問題が残っている.第二の時間として述べた“過去”は円錐のその先端を現在の平面と共有していることにより,“今”に依拠したものとして語らざるを得ない.収縮の度合いによって相対化された“今”との潜在性や差異.そのような領域は,同一性の外部にありつつも同一性を外から支えていくものになってしまう.すなわち,第三の時間に対してもう一つ求められるもの.それは同一性の解体である.この同一性の解体,絶対的な差異のそれはニーチェが永劫回帰の思想で語ったことと接続されるだろう.この永劫回帰の時間が第三の時間を語っていくうえで重要なポイントの一つである.
これらを踏まえて第三の時間を考えるなら,それは直線となるだろう.時間の流れから来る,時間の絶対的な順序性.それは,無限へと延びていく一回きりのこの世界が示しているものに他ならない.そして,無限に伸びる直線に一つの定点はない.そこには,“今”に依拠することがない時間の位相がある.
「順序としての時間が「同」の円環を打ち砕き,時間をセリーに変えたのは,セリーの終わりに「他」の円環を再生成するためであった.順序の「一度きり(une fois pour toutes)」がそこにあるのは,秘教的な最後の円環の「その都度(toutes les fois)」のためである.(「差異と反復」(上)252)
“過去”は既に起こってしまったことという意味で差異を“含む”.そしてそこで収縮の度合いを様々にしながら反復し続けるものである.また,“今”はその差異を等化させる.では“未来”はどうなのだろうか.それは,時が進むという順序性によって他なる差異を招き入れ,“今”によって反復され続ける時間ではないだろうか.第三の時間とは“未来”の時間である.まだ見ぬ私たちの行動を一回きりの順序であることによって,絶対的な差異として反復へと導くもの.そのような“今”に依らない順序の無限の反復が第三の時間,“未来”である.そして,この一回性の反復,あるいは絶対的な差異は「永劫回帰における非定型なもの」(「差異と反復」(上)252)そのものであろう.ここにドゥルーズの時間論とニーチェの永劫回帰はつながる.第三の時間の反復は第一,第二の時間とは決定的に異なる.それは永劫回帰の示す反復であり,そこでは差異をヒエラルキー的に処理されることはない.差異それぞれが時間を生成するものとして取り出されていくのである.
時間を進める「賽の一振り」として第三の時間を取り出してきた.ここで「さくら、もゆ。」に話を戻そうと思う.“夜”に「これから先におこること」が含まれていることは既に話した.これは“夜”の第二の時間=“過去”というあり方とは決定的に異なるものである.「これから先におこること」を含んでいる“未来”は“現在”あるいは“過去”においての出来事とは全く異なる差異をその内に持っている.“夜”が持っているものはそれにとどまらない.その世界で選択されなかった可能性としての出来事すら“夜”には存在しているのである.
「更に言えばここは選ばれなかった時間の墓場でもあり,そうした可能性を,時間という形のないものそのものを記憶媒体とし,蓄積,保管する図書館のような場所でもある.」(「さくら、もゆ。」)
この意味で,“夜”は絶対的な差異を含み,そしてその“差異”を取り入れる時間である.そうして取り入れられる絶対的な差異は同一性を破壊し,ヒエラルキーなき砂漠をえがく.そこでは,同一性からの距離によって評価されることはない,“夜”に生きるすべての生への価値の配分である.
……“夜”に属するものは誰にでも“役割”がある.無駄なものなどいないのだ.無価値なものなどここにはいないのだ.ナナちゃんは囁くようにそう言う.(「さくら、もゆ。」)
このような価値の等配分は,「さくら、もゆ。」では,永劫回帰の祈りとして一回きりの生の肯定,あるいは自己の生の内部的な評価へとつながってゆく.つまり,“夜”が,第三の時間が含む絶対的な差異とは永劫回帰的な偶然性の肯定のことである.
偶然を廃棄するとは,偶然を,多くの賽子振りに基づく確率の規則によって粉砕することであり,しかも結果的に,問題を,そのときすでに仮定のなかで,つまり勝ちと負けに関する仮定のなかで解体し,また命令を,勝ちを規定する〈最善なものの選択の原理〉の関する仮定のなかで道徳化するということである.これとは反対に,賽の一振りとは,一回で偶然を肯定するのであり,賽の一振りのそれぞれが,その都度,偶然の全体を肯定するのである(「差異と反復」)
これは何も生の評価に関する問題ではない.これは時間あるいは個物に対する一般的な議論である.“夜”を通して語られている存在のそのようなあり方は,前は生の評価に関する側面として取り出したが,今言っているのはそうではなく,時間から個物にわたる存在の一般的なモデルである.
そして,この時間は常に順序的である.そのことは前に話したがもう一度引用しておこう.
「“パラレルワールド”.今,ここの世界と,それはどこかよく似ていて,しかしどこか確実に違ってしまっている,もう一つの世界
それはほんの些細なことでいくらでも生まれ,まるで際限もないかのように広がっていく.たとえば――(中略)たったそれだけのことでも,ほら,世界はふたつ,いや,みっつも,出来上がる
この世界はまさにカオスだよ.理論も法則も想いも言葉も減少も,すべて入り乱れては絡まり合って,ひとつの舞台を成している――
そして,そのようにして,世界は,今を生きている命のその心の数だけ……何十,何百,何千と,――この瞬間にも際限なく増え続けていっていることになる.あくまでも,理屈としてはね(中略)
問題なのは…….その“拳銃”では,既に決定してしまった“未来”は変えられない.それが,それこそが,大問題なんだよ.そこにこそあなたの覚悟は試される.」(「さくら、もゆ。」柊ハル)
ナナちゃんが語るそのような時間の絶対的な順序=一回性.それは賽の一振りとしての第三の時間のもつ順序性である.そしてその表現としての直線のイマージュは“夜”が一点で誕生したけれど,それ以前にもそれ以後にも定点なく広がっていることのうちに示されている.
「……“過去”も“未来”も“現在”も.そんなものはあんまりにも関係がなく,すべてのひと達の“隣”に――あらゆる刻の“隣”に存在し,あらゆる刻と刻とを繋ぐ“夜の国”」(「さくら、もゆ。」クロ)
「だからすべての時間は多角的に繋がっているし,現象の記録媒体である時間の中で,一度起きてしまった出来事は,あらゆる時代の“夜”の中にその影を落としてしまう.」(「さくら、もゆ。」クロ)
このような太陽の時間の隣に無際限に均一に広がっていく“夜”の存在様態はまさに直線のイマージュとして表現される第三の時間である.
さらに,子供のみ出入りできるという“夜”の特徴にも注目したい.
「でも“夜”には“女王”が鍵を掛けてしまっている.どんなに強引な方法を試そうと,大人たちが生身を持って“夜”に這入ることはできなくて…」(「さくら、もゆ。」クロ)
この現実世界を生きる私たちが出入りできないけれども子供のみ出入りできるという事実は,根拠なき根拠として第三の時間が示されたものとパラレルではないだろうか.“夜”のもつ現実世界に対するそのような超越論的な審級,それは第三の時間の表現としての“夜”という見地を強めるものになる.さらに,その“夜”の潜在性は分裂症と潜在的なものの関係と合わせて考えることもできるのではないだろうか.
「さくら、もゆ。」のシステム論
”夜”の時間論的な考察から生成のシステムとしての「さくら、もゆ。」の一面が見えてくる.
ドゥルーズのシステム論
ここまでの“夜”に対する時間的な考察から得られた時間の発生は,時間に限るものではない,存在一般の発生のシステムとしてとらえていくことができる.
そこでまず,ドゥルーズの「理念」を見てみる.理念とは何か.それは見えるものが見えるために必要とされるけれども,それ自身は見えないものである.「実在的であるが現実的ではなく,観念的であるが,抽象的ではない」.それは経験されるものではなく,ただ経験したことの内に自ずと示されているものである.しかし,理念は理念として終わるのではない.理念はそれ自体として,差異化を取り消し均していく傾向を持っている(そうでなければ永遠に現在化されることはなく,私たちは経験できないだろう).それは第二の時間が行う精神的な反復と同じものであろう.そして,第二の時間に対する第三の時間の在り方と同じように,理念を理念として引き留めるもの,つまり現実化を解体するものが必要とされる.賽の一振りあるいは不確定点と呼ばれる脱根拠としての根拠がやはり,一般存在者のシステムとしても必要とされるのである.
偶然の全体をそのつど,一度で凝縮する不確定点から,もろもろの特異点が流出するように,命令から,諸理念が流出するのである(「差異と反復」)
この理念と賽の一振りとのパラドキシカルな関係.それが存在が個体化していく上で最も注目すべきものである.
理念は,実在的であるが現実的ではなく,差異化しているが分化してはおらず,充分であるが完璧ではないということだ.〈判明で曖昧なもの〉とは,本来は哲学的な酩酊・眩暈であり,つまりデュオニソス的な〈理念〉である.したがってライプニッツは海の岸辺であるいは水車の間近で,まさにぎりぎりのところでデュオニソス的を逃していたのである.(「差異と反復」)
デュオニソスとアポロンとはむしろ,哲学的な言語活動において,かつ諸能力の発散的な行使のために,二つの暗号化された言語を合成する.すなわちスタイルの齟齬を合成する(「差異と反復」)
デュオニソス的な理念を背後に引き受けてアポロン的に現実化するというパラドックスがその現実化を推し進める力なのである.共存しえないその齟齬こそが,思考しえないものを思考せねばならないその在り方が理念を現実化へと導く力なのである.このような様態で差異が分化し現実的なものになっていくことで種別化と組織化が起こる.その個体化の果てには「私」と「自我」という形で取り出されるものであろう.個体はやはり,デュオニソス的なものを背後に抱え続けていかざるを得ない.
理念的統一としての〈判明で曖昧なもの〉に,個体化の強度的統一としての〈明晰で混濁したもの〉が対応している.〈明晰で混濁したもの〉は,理念を形容するものではなく,理念を思考し表現する思考者を形容するものである.なぜならば,思考者は個体そのものだからである(「差異と反復」)
クロに即して
分化によるこのような個体の生成をクロの例を持って実際にみてみよう.
しかし彼女自身は,漆黒色の子ども達の傀儡のようなものだった.
「彼女は名もなき大勢いるうちの一匹でしかなかったし,自ら考え行動するための心など持ち合わせていなかった」
他の黒猫たち同様に,命じられるままに大人たちのもとへ歩いて行って……その心をひび割れさせていっただけ.
ただ淡々と与えられた“役割”をこなすのだ.
そうすることに深いさだとか,疑問だとかを感じることもなかった.
ただ,幾つもいくつも大人たちの心を壊していくその中で…….
「クロ一匹だけが何か違った.大人たちの壊した心の破片を,自分の中に少しずつため込んでいったんだ」(「さくら、もゆ。」クロ)
これは多くの反復を経て差異から個体=クロが産まれたととらえることはできないだろうか.“役割”を繰り返し,大人たちの心の差異に触れることで差異に際立たせられる形で“私”=クロが産出される.心の破片を取り込むということは,つまり差異のある大人たちの心を分化させる形で少しずつ“私”を形成していったということである.このようにして,クロの“私”の誕生は,存在一般の生産システムの一例としてみることができるのである.
「さくら、もゆ。」の精神分析化
ここでは,精神分析的な観点から”夜”の在り方を見ていく.これによって,”夜”の永劫回帰的性質がさらに際立つことなる.
エス-願い-
さらに精神分析的な観点を交えてこのシステム論を見てみよう.そうすることで,“夜”のもつ死の時間が明確に意味を,位置を持つこととなる.
ドゥルーズは三つの時間をそれぞれエス,エロス,タナトスと関連付けて語ってゆく.
ハビトゥス=習慣化の位相と重なるのはエスである.エス,すなわち無意識.それは欲望が具現化されるという受動的総合の場でもあり,かつそれは能動的な自己性が発生していく場でもある.そのような点において,エスの働きと生ける現在である第一の時間は重なってゆく.
それに“夜”の中の願いを重ねることは容易だろう.
――だけど,すべての願いが叶う場所.いや,すべての願望が形となる場所.(「さくら、もゆ。」)
エロス-代償-
しかし,第二の時間の在り方と同じようにそれには現実化されない潜在的な基盤の領域が確保される必要がある.そのエスに対する潜在的なものがエロス的な欲望の基盤として描かれる.幼児の興奮が向かう一つのものは現実的な対象である.ここでは,母を例にして考えてみよう.そして幼児は母の知覚の反復を目指していく.しかしその裏で常に現実的な対象に対して潜在的なものが裏として絡まっていく.それは母の例では,指や遊具といった根源的な母の代理性のことである.このようなそれ自体具体的なものの裏側のような潜在的対象にエロス的な欲望は絡みついていく.現実的なものへと欲望を駆動させるがそれ自身はとらえ損なわれるエロス的な欲望.そのようなエロス,あるいはラカンの「対象a」. それは第一の時間の根拠としての第二の時間の位相とパラレルな位置を成すだろう.
そしてこのエロス的な欲望は“夜”の持つ夢の時間という在り方と重ね合わせられるのではないだろうか.ただしこの“夜”のなかでは,願いはそのまま叶えられるのではない.そこには代償が必要になる(それがエスのイマージュとして“夜”をとらえないことの理由である).しかもこの代償すらも私たちは意識的に捉えられないけれども,私たちが思う通りになる.
「大雅も知っているとおり,“夜”の中で何かを得るのなら,相応の“何か”を差し出す必要がある……」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
「大雅はあなたの代わりに“影”となる.そして,“夜”の中を永遠に彷徨い続ける.いつか幸せだった時間ばかりを追い求めて――それが,あの子の“想像”してしまった“代償”だよ」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
そのような願いに対する裏側としての代償の在り方はまさにエスに対するエロスの定置であろう.ゆえに,“夜”はその一面にエロスのイマージュとしての機能をもつ.
タナトス-死者の時間-
そして時間論の第三の時間と同じように,エス-エロスの循環に対するより深く絶対的な差異を取り入れるものが無根拠として超越論的なものとして必要とされる.タナトス.その経験的なものを放棄し,無底としてその循環を打ち破る空虚な形式としての時間.それは死への欲動として生を動かし,それによってエス-エロスのその差異を切り開いていく.
エロスとともに循環に入ることはない.死の本能はけっしてエロスを補完するものでも,エロスに敵対するものでもない.死の本能は,いかなる意味でもエロスと対称的であることはなく,むしろまったく別の総合を証示している(「差異と反復」)
そして,エス-エロスという関係だけではなく,このエロスは永劫回帰という点において第三の時間と大きなかかわりを持っていく.
永劫回帰が本質的に死と関係しているのは,永劫回帰が「一」であるものの死を,「一度きり」に促進し,かつ巻き込んでいるからである.永劫回帰が本質的に未来に関係しているのは,未来が,多様なものの,異なるものの,偶然的なものの,それら自身のための,かつ「その都度」の展開であり,繰り広げであるからだ.(「差異と反復」)
永劫回帰の一度きりという賭けとしての偶然性の肯定は,ドゥルーズが語るように「死」と「未来」を繋ぐ架け橋のようなものになる.その一度きりは死へと向かっていくものであり,なおかつそれは「未来」を切り開いていくものである.このような根底で第三の時間とタナトスは密接に連関しあっている.これはドゥルーズが一貫して一回的なものの反復である,第三の時間が永劫回帰のイマージュとしてあることに由来するだろう.
ここに死の時間として描かれている“夜”がそうであることに意味を持つのである.
“夜”…….
“夜の国”
ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある.終わってしまった命あるものは,この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった.(「さくら、もゆ。」)
第三の時間として見られる“夜”が死者の時間であること.それは,タナトスと第三の時間の連関を示唆しているとしてみることができるのではないだろうか.影となった死者は第二の時間のイマージュとしてとらえられるのであった.しかし,あの世とこの世のはざまを生きている影ではない一時的な滞在者である死者―それは影とは違い明確に意思を持つ存在である―についてはこれまで何も述べてこなかった.しかし,ここにおいてそれはイマージュとして機能することがわかるだろう.“夜”にいる死者.それは経験的ではない空虚な存在であり,太陽の時間を生きる私たちやその記憶を再生し続ける影とは本質的に異なる存在である.それは“私”の終着点でありながら,次の時間のことを願いそして“私”が死ぬことで次の生へと推し進めていく.そのような願いの無底としての死者の時間として“夜”が描かれていることから,“夜”はタナトスのイマージュと言ってもいいだろう.タナトスと第三の時間.どちらによっても“夜”の永劫回帰的な性質は強調されていく.
終わりに
今回はここまでにするが,これまで話してきたように“夜”は第二の時間と第三の時間(あるいはエロスとタナトス)のどちらをも含んでいるように見える.それについてどのように考えていけばよいのだろうか.それは現実化を常に逃れつつ現実化していく発生のシステム,ドゥルーズのいう静的発生,としてとらえられるのではないだろうか.二つの空間の間を成す薄膜の”夜”.それはドゥルーズ的な表層を巡る議論とも見える.しかし,さらに議論を深めるためには賽の一振りとして与えられた深層をさらに掘り下げて考えてみようとおもう.次回はそれを書いていきたい.
参考文献
「瞬間と永遠:ジル・ドゥルーズの時間論」,岩波書店,檜垣立哉
「ウィトゲンシュタイン入門」,ちくま新書,永井均
Twitterロックされた件
持ってるアカウントが1個凍結されてそれのせいで、それ以外のアカウントがロックされてしまいました。電話番号でロック解除してもまたロックされての繰り返しで電話番号使えなくなったので当分Twitterできないかもですね。(1,2日は)電話番号のロックが解除されたら戻れるんですけどね。 Twitter転生するかTwitter辞めるかは今のところ未定です。 マストドンはpawooの@tenro1 https://pawoo.net/@tenro1 もし復帰しなかったら欲しかったらLINEは誰かからもらって
人間的な、あまりに人間的な。:「さくら、もゆ。-as the Night's, Reincarnation-」の永劫回帰論
はじめに
「さくら、もゆ。-as the Night's Reincarnation-」と題されているように,この作品では輪廻あるいは永劫回帰の思想がキーポイントとなっている.ここで述べるのは時間のイマージュではない,世界の在り方という意味での永劫回帰である.力への意志を超えてゆきながら,永劫回帰へと至る道筋,それこそがこの「さくら、もゆ。」で示されているものである.
続き→
力への意志
まずは,力への意志を軽く説明しておこう.
力への意志は,それ自体として多数のパースペクティブから語られるが,今は価値と実存の観点から考えてみる.
真理に誠実であるということ,それが真理そのものを食い破っていく.そうして見いだされる境地が力への意志である.キリスト教的な神の死の宣告によって生まれる,真理の不在.その位置から世界は力へと解釈されなおす.力には「観点」と「解釈」の二つの概念が連関している.自分の位置(=観点)から世界を見る(=解釈する)ということ,それが力への意志の原風景である.
強者と弱者はまったく同じように振る舞う.どちらもできる限り自分の力を拡大しようとする.(1838 12[48])
およそ「認識」という語が意味を持つ限り,世界は認識されうる.だが,世界はほかの仕方でも解釈されうるのだ.世界はその背後にはいかなる意味も持たず,無数の意味を持つ.「パースペクティブ主義」(1886 7[60])
ニーチェがこのように述べているように,自己に固有なパースペクティブによって,他者を従えようととする闘争,それが力への意志である.この闘争は終わることのない闘争である.自己と他者が互いにそれぞれのパースペクティブを持ってそれぞれを評価する,この位相にいる限り,我々は常に力を,他者を自己に従えようとすることを,望まざるを得ない.それゆえ,この位相は「闘う獅子」とイマージュされるのである.
このような中で,これまでのすべての価値は超えていかれるものである.もはやそこにあるのは,価値ではない.あるのはただ,解釈のみである.価値を放棄し,すべてを解釈とすること,それはデュオニソス的なものの肯定の一つである.
この種の相対主義は語れるものではなく,示されるものであろう.価値を解釈として超えること,それが力への意志の真理性を示すことになる.
しかし,ここで注目すべきであるのは,力とそれを求める意志の関係性である.この関係を明らかにすることによって,次の位相への手がかりを得られる.
一般的に,力を持つもの(=強者)は,力を求めない.強者は満ち足りているからである.一方で,弱者は本質的に力を求める生き物である.すると,力とその意志の奇妙な関係が開示される.すなわち,力への意志を持つものほど,弱者である,ということである.ゆえに,力への意志という世界観は,徹頭徹尾弱者的な,奴隷的な世界観である.弱者による,世界観の転倒.そのようなルサンチマンが力への意志には隠れている.
デュオニソス的なものの真なる肯定のためには,やはり真理の不在を暴いた時と同じように,この位相を突き破ることで新たな位相へと至らなければならないであろう.
永劫回帰
永劫回帰.それは,ニーチェ哲学で最も特徴的なものである.生をそれとして肯定すること,デュオニソス的な肯定を与えるものである.
永劫回帰がもっとも端的に表れている部分を見ておこう.
最大の重し――もしある日あるいはある夜、おまえのこのうえない孤独のなかに悪魔が忍び込みこう告げたとしたらどうか。
「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ。しかもすべてが同じ順序と脈絡において(中略)と」――おまえは身を投げ出し、歯ぎしりして、その悪魔を呪うのではないか。それとも、おまえは突如としてとてつもない瞬間を体験し、「あなたは神だ、私はかつて一度もこれほど神々しいことを聞いたことがない!」と答えるであろうか。もし生の回帰という考えが、お前を圧倒したとすれば、それは現在のおまえを変えてしまい、砕きつぶしてしまうかもしれない。何事につけても「おまえはもう一度、いやそれどころかさらに無限回、それを欲するするか」という問いが最大の重しとなっておまえのうえにのしかかるだろう!そうはならずに、生の回帰というその究極的で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。(悦ばしき知識)
死後の世界などというものはなく,また寸分たがわぬ在り方で,人生が無限に繰り返されるということである.このことに対する反応は,最大の重し,つまり呪いとしてとらえるか,そうあってほしいと願うかのどちらかである.もちろん推奨されるのは後者の在り方である.人生の偶然性が永劫回帰を通して必然でもあるということ.そしてそのような偶然かつ必然な生の在り方をいとおしむこと.そのような在り方こそ,ニーチェが推奨するものである.もはや,この位相において,生のその在り方を超越的な外部から評価したりすることはできないだろう.すなわち,人生は“ただそうであった”ということそれ自体が意味を持つのである.無意味からの意味の産出.必然的な人生は,弱者にとっては忌むべき,無意味なものである.だが,それが偶然かつ必然であるということで価値が,意味が自然に見いだされるのである.どんな人間の人生,たとえそれが犯罪者でも英雄であっても,等しくそのような人生であったことそのものに意味があるのだ.それゆえ,永劫回帰は同じ人生が無限に繰り返されてもいいような生き方をしよう,などというくだらないことをいっているのではない.そのような人生の選択肢などそもそも存在しえないのである.これは,驚くべき思想である.悪人も善人もこの位相では,すべてが等しく同じ人生の意味を持つ.どのような悪事も大きな歓喜をもって受け入れるのである.
『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である…何であれ何らかの意味で有害で破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう(1888 14[153])
しかし,やはりこの永劫回帰を力への意志という位相にいる人が肯定することは難しい.永劫回帰は最初超えられるべき試練なのである.(事実,ニーチェにとってもそうであった.)永劫回帰を受け入れることは,転がせない石を動かす意思の,過去への復讐意志の否定である.過去を「こうあるべきであった」,「こうするべきであった」と復讐の対象とすること,この復讐意志を永劫回帰は封印する.どのようにしてか.それは「私はそう欲した」と意志を過去と重ね合わせることではない.このような在り方での復讐意志の封印はルサンチマンであろう.過去を自己の意志に従わせようとすること,それは力への意志に他ならない.ここに至ってなお,我々は力への意志の位相から脱せていないのである.
永劫回帰の位相へと我々を駆動させるものは,「遊ぶ子供」や「芸術」とイマージュされる,意志の否定である.すべては力への意志ではない,いや,意志こそが不在なのである.
出来事は,引き起こされたものでもなければ,引き起こすものでもない.原因とは,作用する能力だが,出来事に付加されるべく捏造されたものである(1888 14[98])
こうして,世界を解釈する原因としての力への意志の不在が宣告される.それはすなわち,「ただそうであった」ということを手放しに認めるということである.物事の背後には,超越的な何かがあるのではない,「ただそうである」それだけなのである.このような永劫回帰のもとでは,すべてのものが肯定されざるを得ない.永劫回帰とは,デュオニソス的な聖なる肯定であり,運命を愛するということ,運命愛なのである.
自由になった精神は,歓びにあふれ,信頼している宿命論を携えて,ただ個別的なものだけが非難されるべきなのであって,全体としてはすべてが救済され,肯定されているという信仰をいだきつつ,万有の中に立つ――彼はもはや否定しない。……だが,このような信仰はあらゆる信仰のうちでも最高のものだ。私はそれにデュオニソスの名を与えた(「偶像」「反時代的人間」49)
生成が一つの大きな円環をなしているとすれば,どんなものも等しく価値があり,永遠的であり,必然的である……
肯定と否定,好きと嫌い,愛と憎,といったすべての相互関係のなかには,ただある特定の生のパースペクティブと利害関心が表明されているにすぎない.それ自体としては,存在するすべては「これでよい」と語っている.(1888 14[31])
夜の二重性
「さくら、もゆ。」を永劫回帰のイマージュとしてとらえていく.
作品中では,夜の世界は太陽の時間,つまり現実世界とは異なった位相として描かれてゆく.もちろんここでの夜は日常世界における「夜」とは全く別のものである.「夜」は太陽の時間に対して単なる物理的な裏側である.そこにおいて,太陽の時間と本質的な差異は見出しえない.だが,夜は違う.現実世界とは全く異なる位相として存在している.このことこそが夜を分析していくうえで重要になっていくだろう.また,夜に関してもそれ自身が持つ二重の意味の持ち方にも注目せねばならない.夢や死といった夜の位相と子供という夜の位相が互いにパラドキシカルな形で補い合う形で存在していること,それは物語において大きな意味を持っているはずである.
前置きはこのあたりにしておき,まずは夜の存在様態から見ていく.夜は先に述べたように,現在我々が生きる場所とは本質的な差異がある場所として描かれてゆく.
太陽が眠りにつき.満月が微笑むその時刻….この町の裏側に訪れる,もう一つの夜――“夜の国”(「さくら、もゆ。」)
“夜の国”は夢の舞台だ.生者にとっては“夢”を見るための劇場なのだ.舞や猫たちが大きな“夢”の演目を用意している.(「さくら、もゆ。」)
「ここは,“夜の国”.すべての願いが叶えられる国
君らの時間でも太陽が傾けば夜が来る.そうだな?太陽が沈み,月が目覚める――瞬く間に静かな闇が辺りを染める
そうすればここも,もうひとつの“夜”も,君らの町の裏側に……同時に目覚める」
それは,その“特別”な時間は,この町で眠るすべての人々の心に,いつも隣り合わせでつながっており……(「さくら、もゆ。」)
夜の現実世界との差異は,すべてを叶えるということである.
そして“夜の国”の一番の特徴はというと……。
「もうひとつの“夜”の中では,肉体を持ち込むことができた者に限り――
頭で,心で,思い描いたすべての光景が形となって現れる.そういう性質を持つ刻の中に,“ゆめのねどこ”はある.」
ここはすべてが叶う不思議の国だ.(中略)それはまるで,明晰夢.毎夜見る夢の光景を自在に,思うまま,操作できてしまえる感覚に良くよく似ている.(「さくら、もゆ。」)
「現実世界はあんまりにも厳しくて…….心の中の地獄に飼い殺されるかのような苦しい時間の連続だ
だからせめて眠るときだけは,いつでも,どんなときでも,安らかでいてほしい…….愛おしく想う誰かと過ごせるような,そんな時間であってほしい」
女の子はここをそんな“国”にしようと,“夜”の中でいつまでも夢見ていたという――そういった女の子の“想像”(祈り)が,きらきら眩しい“夜”を作った.(「さくら、もゆ。」)
このような夜の様態に対して,夜は夢や明晰夢といったイマージュを与えられる.このイマージュに重なり合うようにして,夜は死者の時間としても描かれる.
“夜”…….
“夜の国”
ここは言ってみればあの世(月)とこの世(太陽)の中間点でもある.終わってしまった命あるものは,この“夜”を必ず一度は通過する――この通過点は“次”へと向かうまでの休憩所のようなものであった.(「さくら、もゆ。」)
そして,夢というイマージュと死の時間としての夜が次の言葉によって接続される.
「……“眠ることは死者の世界に生きることである”」(「さくら、もゆ。」)
夢を見るということと死後を生きるということが同じであるというのはどういうことなのだろうか.それには,両者が持っている類似する側面が関係している.
夢の世界では,現実では起こりえないこと,起こらなかったことを叶えられる.それは,転がせない石を転がそうとすることではないだろうか.またそれは,より良いものを求めるという力への意志ではないだろうか.
永劫回帰の部分でも同じことを述べたが,死後の世界を想定すること,そこには超越的な立場に立つことによって今ある生を断罪するという強いルサンチマンが介在している.次の生がこうあってほしいと願うことも一つの力への意志としてとらえられる.
すなわち,夜はその一面として力への意志のイマージュである.しかし,それは一面に過ぎず,たしかに乗り越えられていくものである.
力への意志のイマージュとしての夜を破り永劫回帰の場としての夜に至るための第一歩は,子供だけが夜に出入りできるという事実である.
「でも“夜”には“女王”が鍵を掛けてしまっている.どんなに強引な方法を試そうと,大人たちが生身を持って“夜”に這入ることはできなくて…」(「さくら、もゆ。」)
夜とは,子供の場である.そこに大人の場所はない.人は大人になるにしたがって理性を身に着けてゆく.つまり大人はアポロン的な存在者なのである.大人は大人ゆえに叶えられないことを知っている.だからこそ,大人にとっての夜は徹底的に夢や死者の場でしかありえないのである.理性的であるがゆえに,叶えられないこと,転がせない石を,夢という形で叶え,転がそうとする.大人からすれば,夜はルサンチマンの場でしかありえないのである.それは,永遠の命を“夜に求める”大人たちという形で描かれている.
……私,柊ハルが産まれたのは,大昔から続く芸術家の血筋だ.(中略)しかしそれはあくまでも表の顔だと,おじさんは言う.裏では,何かしらの芸術の“才能”を持って産まれてこなかった子らを,暗い部屋に閉じ込めて――“怪物”たちの餌にしていたのだという.その見返りに,“不思議の国”(夜の国)を管理する“怪物”たちから,“永遠の命”を授けられるのだと,私の先祖たちは信じていた……らしい.(「さくら、もゆ。」)
しかし,子供は違う.子供にとってはすべては叶えられるものなのである.子供にとっての夢は大人からみれば叶うことはあり得ないようなことであることが多々ある.子供は無垢,純粋であり,そこにルサンチマンや意志はない.ただそうであることを歓び受け入れる,そのようなデュオニソス的な在り方こそが子供なのである.子供は無垢であり,聖なる肯定である.それゆえ,ニーチェは永劫回帰を「遊ぶ子供」というイマージュに託したのである.つまり,夜という場所は遊ぶ子供の場,永劫回帰を与える場でもあるのである.だからこそ,ましろは,女王は,夜に大人が入れないものとして鍵を掛けたのではないか.それは,復讐意志を封印し,まっさらなものとして生を歓び受け入れることに他ならない.真っ白であること,それはルサンチマンにとらわれない肯定の形式である.真っ白であるから,すべてのものを描ける,そのような在り方は今ある生を無条件に肯定する永劫回帰の在り方と重なり合わさっていく.
――だけど,すべての願いが叶う場所.いや,すべての願望が形となる場所.(「さくら、もゆ。」)
すべてが叶うからこそ,そこにルサンチマンや意志が介在する余地はない.あるのはただ,すべてのものに対するデュオニソス的な肯定である.子供の場としての夜はどこまでも否定のない肯定の場として描かれてゆく.
……“夜”に属するものは誰にでも“役割”がある.無駄なものなどいないのだ.無価値なものなどここにはいないのだ.ナナちゃんは囁くようにそう言う.(「さくら、もゆ。」)
夜が永劫回帰を与える場であるということは,「さくら、もゆ。」における芸術の描かれ方からもうかがえる.
ニーチェにとって芸術とは,デュオニソス的なものである.
すべての芸術家ではない人々が,「形式」と呼ぶものを,内容と,つまり「事柄それ自体」と感じた時,人は芸術家となる.このことによって,その人はもちろん転倒した世界に住むことになる.なぜなら,その人にとって,内容が単に形式的なものになるからだ――われわれの人生も含めて(1888 14[47])
芸術は本質的に現にあるものの肯定,祝福,神化である(1888 14[47])
そして,作品中で芸術はやはり,夜へアクセスするためのものとして描かれている.
夜のパラドクス
夜は遊ぶ子供のイマージュや芸術との連関において,やはり,永劫回帰の場として機能している.夜はこのように力への意志という面と永劫回帰の面が表裏のように張り付けられている.「あの世(月)とこの世(太陽)の中間点」という表現が示すように,言えば“膜”のようなものなのである.ルサンチマンを捨て,力への意志という位相から永劫回帰へと至るための第一段階のような場,それが夜に与えられた役割ともいえる.このような夜の表裏一体の形が最もよく表れているのが,次のような一見永劫回帰と異なるような作品中での生の取り扱いではないだろうか.
「もしも人生,やり直せるなら――
さっき姫織がそう言っていたよね
もしも,だなんてことはないんだよ.あなたたちの人生は……命はきっと,幾らでも,何度でも,やり直しがきくものなんじゃないかな」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
「死んだ人間の命はそこで終わりにはならないんだって話だよ
この世界で命尽きるということは,また別の世界に生まれ直すということなんだ――……ほら,さっきの光.あの列車だよ」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
作品中においては,人の命について明確に来世というものを規定している.これは永劫回帰の無限に繰り返される一回きりの生というものに反しているのではないか.そして,それは来世によって今ある生を断罪する危険なルサンチマンなのではないか.いや,そうではない.その人の生はそれっきりで,また無限に繰り返されていくのである.
「そんなふうにして,それぞれの“役割”を見つけるために,あなた達は何度も何度も生きることをやり直すのかもしれないなって私は思ってるよ――……だけどね」
「うん,いくら命は不滅なものなのだとしても.すべての命は,終わることなくぐるぐる巡るのだとしても……
だけど,今の“あなた”という命の形は今回きりなんだよ.あなたが夜月姫織でいられるのは,この星での制限時間が尽きるまでの間でしかない」(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
その人の生は,たった一回きりのものである.命は廻っていく.しかし,“私”の生は一度しか起こり得ない.そして,その生は夜という時間の中で無限に永遠と繰り返されてゆく.
“夜の国”とは時間の墓場のような場所でもある.誰かがそう語ってた.
過ぎ去り終わってしまった時間もまた,時間という空間そのものを記録媒体のようにして,永遠と“夜”に記録されているのだという.(「さくら、もゆ。」クロ)
今日が四月一日だったとする.
すると,過去,あるいは未来の四月一日に起こる出来事のすべてが,その記憶が,“夜”の“参禅町”を彩っている.(「さくら、もゆ。」クロ)
起こったこと,あるいは起こっていくことすべてが夜の時間の中で無限に再生され続ける.このような時間の図書館としての夜の役割は,これはましろが付け加えたものだが,永劫回帰の在り方としてふさわしいのではないだろうか.また,作品中での時間世界というものの描写もそれに呼応している.少し長くなるが,一回性というものを最もよく表している部分を引用しよう.
「“パラレルワールド”.今,ここの世界と,それはどこかよく似ていて,しかしどこか確実に違ってしまっている,もう一つの世界
それはほんの些細なことでいくらでも生まれ,まるで際限もないかのように広がっていく.たとえば――(中略)たったそれだけのことでも,ほら,世界はふたつ,いや,みっつも,出来上がる
この世界はまさにカオスだよ.理論も法則も想いも言葉も減少も,すべて入り乱れては絡まり合って,ひとつの舞台を成している――
そして,そのようにして,世界は,今を生きている命のその心の数だけ……何十,何百,何千と,――この瞬間にも際限なく増え続けていっていることになる.あくまでも,理屈としてはね(中略)
問題なのは…….その“拳銃”では,既に決定してしまった“未来”は変えられない.それが,それこそが,大問題なんだよ.そこにこそあなたの覚悟は試される.」(「さくら、もゆ。」柊ハル)
夜を通して過去への復讐を貫徹したとしよう.しかし,それを行った自己と元を生きている自己は全くの別人なのである.世界は常に一度きりであるし,出来事はすべて必然かつ偶然に起こる.そのような時間の在り方は何人たりとも変えられない.それがこのナナちゃんの発言を通して開示される.世界がパラレルに分岐していったとしてもそれを生きる“私”たちは各々別人なのである.このような時間の在り方は直線というイマージュを割り当てられるのではないか.そしてそれは,ドゥルーズが語る第三の時間,アイオーンにクロスしていくのではないだろうか.一本の直線という時間の在り方は,鉄道,機関車というイマージュによって語られるナナちゃんの在り方とも連関を持つだろう.そして機械=機関車というイマージュが死の世界でもある夜の世界に存在しているということは,死の本能を巡るドゥルーズのゾラ論へ,そして欲望機械へとつながっていくのではないだろうか.ドゥルーズの哲学から「さくら、もゆ。」を見るということも今後なされるべき課題であろう.話が少しそれてしまった.本題に戻ろう.パラレルな生の他人性はほかの場面でも描かれている.
確かに君は柊ハルを撃ち抜いた.でもそれは,君であって君ではない.(「さくら、もゆ。」クロ)
「柊ハルと生きた人生.杏藤千和と生きた人生.夜月姫織と生きた人生.……クロがその命をかけ,君に送った幸せな時間だ
今,ここにいる君とは違う時間世界の中を生きた自分自身.その“想い”までをも全部,ここには記録されている(中略)
君が奏大雅として生きたことで,あらゆる時間世界の人たちは.その人生にハッピーエンドを手に入れられた
今も,この瞬間もだ.幸福であろうその時間は続いている.この“夜”の世界に決してなくなることなく,記録されていっている」(「さくら、もゆ。」クロ)
このテクストからわかることは,生は生きている当人にとっては,分岐しているように見えるかもしれないがそれは正確ではないということである.分岐する世界としてみるのであればその世界を生きる“私”は同一である.しかしそうではない.分岐している時間世界を生きる生は今を生きる“私”とは別である.分岐されたかのように見える世界は存在し,その世界は永劫回帰として,無限に繰り返されてゆく.だから,奏大雅が死んで過去へ戻ったとき,すでにそれは元の奏大雅のように見えてそうではない.「“人生にリセットは利かない”」のである.
闘う獅子から遊ぶ子供へ
さて,夜はこれまで述べてきたように,力への意志と永劫回帰をつなぐ薄膜のような存在ととらえられるのであった.夜のこのパラドキシカルな存在様態はそうすれば納得できるだろう.力への意志にせよ,永劫回帰にせよ生きるのは“人”である.夜は所詮イマージュでしかない.そこで,奏大雅やその他のヒロインの生き方を見てみよう.そこでは,駱駝から獅子へ,そして夜を契機にして,獅子から子供へと至る生の軌跡が描かれてゆく.
そうして私は,お母さんの作ってくれた人形を依り代にし,お母さんの“心臓”(命)をもらい,存在を得て――“太陽の時間”(現実世界)の中に産まれ直したのだ.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
ソルの時間はとっくに尽きてる.故に.この“夜”に産まれ直すようなことはない――彼との“さよなら”は本当の“終わり”なのだ.(中略)
「……私が,ソルにとっての死神,だったんだ」(「さくら、もゆ。」杏藤千和)
おじさんは.この世界でたったひとりの私の味方は.……味方でいてほしいと願う,その人は.もう二度と,誰の問いかけには応えない.(「さくら、もゆ。」柊ハル)
「ぼくなんて生まれてこなければよかった――あの子がそう感じてしまう原因を,わたしが,作ったんだ.あの子のお母さんの心を,わたし達が壊したんだよ」(「さくら、もゆ。」クロ)
しかしそうした“代償”の末に救われたはずの男の子は,何も,何ひとつ,救われないまま,再び地下牢に閉じ込められている.
自分のせいで大切なひと達全員,二度と帰らぬ人となってしまった.そういうふうに,自分をずっと責め続けた.(「さくら、もゆ。」クロ)
ここにある,自己にはどうしようもないものをいわば原罪のように背負わされてしまっているような生の在り方.それはニーチェが駱駝のイマージュに乗せて描いたキリスト教的な生の在り方そのものではないだろうか.そして,このような原罪は過去への復讐意志という力への意志と絡まり合うことで,闘争する獅子として描かれる第二の生の位相へと変容させられていく.その力への意志は自身の原罪を償う究極の形として,死を求めるという形で現れる.
大切な命を取り戻すんだ.それが私の“夢”だった.“夜”の中で何かを得るなら,同様の価値ある“何か”を差し出さなければならない.それが“夜”のルールだ.(中略)私の“心臓”(命)はもう既に“夜”の底…….“後悔”はない.“命”を無駄にしたわけではない.自分の“夢”を叶えるのだから,自分の“命”をもやさずしてどうするというのか.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
「お願い.なんだってする.どんなことだってがまんする.私の全部を,あげるから.だから……お願い.お願いします」
どうか,神さま,ナハトに大切なお友だちを返してあげて…….(「さくら、もゆ。」杏藤千和)
「おじさん……
私たちは,出会わなければよかった」
“大切な人に起こる未来の不幸を肩代わりすること”
それが,幼いハルの願った“魔法”だった.(「さくら、もゆ。」柊ハル)
「……わたしなんて,生まれてこなければ,よかった」
そうだ.大雅…….ねえ,大雅.わたしたちは,出会わなければよかったんだよ.(「さくら、もゆ。」クロ)
――この命そのものが疫病神だ.
――周りの人たちを.
――何よりも大切だと想うすべての人たちを.
――ぼくは手当たり次第に不幸にしてしまう.
――この命は,この存在は,そういうふうにできてしまっている.
――だから死にたい.最大最悪の罰を受けてから,死んでしまいたい.(「さくら、もゆ。」共通)
ここで描かれている願い,夢はすべて自己を,駱駝としての“私”を供物として捧げることで,背負わされた原罪を償おうとするものである.力への意志の空間である夜の時間を媒介にすることで,もはや転がせない石となってしまった過去を,自罰という形で転がそうとする.そのような危険な意志が顔を覗かせている.自己の生の否定,それはニヒリズムの一つの形式である.目指すところはニヒリズムの克服であるが,それはニヒリズムを否定するという形ではない.それは強者にのみなせるやり方である.弱者のための,力なき人のための物語であるならば,それは力の思想としてニヒリズムを超えるのではない,逆にニヒリズムを徹底することでニヒリズムへと至らねばならない.それは,無価値から価値が生産されること,無意味から意味が生まれ出ること,である.すべてが無意味であった“私”の生が,“永劫回帰の空間である夜”を通じて(それは夜の持つ二重意味性によって永劫回帰とパラドキシカルな経路をたどってゆくだろう),意味を持ち,ただそれだけで苦難や失敗すらもまぶしく光輝いて見える.そのような力への意志の空間である六番目の空間,正午の時間を過ぎた,もはや太陽すら存在しない永劫回帰の七番目の時間,バタイユの描く非-知の夜に至るのである.
私が夜と名付けているものは,思考の闇とは違う.この夜は光の激しさを持っている./夜は,それ自体,思考の青春であり陶酔であるのだ.(「有罪者」)
非-知は裸形にする.
この命題は頂点である.だがそれは次のように理解されねばならない.裸形にする,それだからそのときまで知が隠していたものを私は見る,けれども見るならば私は知るのである.実際私は知り,だが私の知ったものを非-知は再び裸形にする.言い換えれば,無意味が意味になっても,この無意味という意味は消え去って,再び無意味になる(この繰り返しは可能な限り続く)ということである.(「内的体験」)
いかなる矛盾するものもそこに共にありそれが交差していく場,非-知の夜.そのような在り方が力なきものの英雄譚としてふさわしいのではないか.そして,それこそが作品の中で描かれてゆくのではないか.
生をデュオニソス的に肯定すること,すなわち,永劫回帰を受け入れることに対して重要なステップは恋である.一つの生の出来事について肯定することで,意志に反して生そのもの肯定しようとすること,それ自身も強い力への意志である.ゆえに,そのような仕方で生を肯定することはあってはならない.おのずと自己の生を輝かしく愛しいものとして肯定し受け入れること,それが重要なのである.そして,それに最も近いものとして恋が描かれてゆくのではないだろうか.それはニーチェのルー・ザロメとの恋愛体験とパラレルな在り方ではないだろうか(もっとも,こちらは悲哀に終わってしまうのだが).
人生のなかばにして.――否!人生は私を失望させなかった!それどころか,歳を重ねるにつれて,人生はいっそう豊かな,いっそう望ましい,いっそう神秘に満ちたものと感じられてくる.――人生は認識者にとっての一つの,実験であるといってよい――義務でも,宿命でも,虚妄でもなく――というあの思想,あの偉大な解放者が私を襲ったあの日以来!(中略)「人生は認識のための手段」――この原則を胸に抱くことによって,われわれはただ勇敢になれるだけではなく,悦ばしく生き,悦ばしく笑うこともできる!(「悦ばしき知識」324)
「さくら、もゆ。」の中でも,恋は生の肯定の重大なポイントとして描かれている.それは,恋する人と,好きな人と生きること.その人生での苦難は意味があり手放しに受け入れ肯定されるものである.そのような恋を駆動力にした,永劫回帰の受け入れ.それが,力なきものへ送るニヒリズムの徹底としての物語である.恋を通して我々は気付くのである.この生は必然的な無意味であるからこそ,この人と出会うことができた,この人生には意味があった,と.無意味で暗い真っ白なこれまでの人生が,恋という太陽をその内部に抱くことで,真っ白の人生がそれ自体として輝きだす.そこには,過去への復讐という太陽は既に存在しない.
大切な人と手を繋いで,一緒に帰ろう.そうすることができるだけで充分だ.充分以上に,幸せだ.今日も.明日も……これからも.(「さくら、もゆ。」夜月姫織)
「ひとつ,悲しかったり大変なことだったりを乗り越えても,また次の何かが待っている.ここは,そんなふうにして進む時間の中なんだろうと思うけど……でも」(中略)
「うん,でもきっと,きとおね.何があっても大丈夫だよね
あなたと一緒に……,これからも一緒に,この命を大切に,大切に,生きていきたい」(中略)「だからきっと,何事もない“今”が幸せ.そうだよね?」(「さくら、もゆ。」杏藤千和)
友人だったり.恋人であったり.家族であっても.俺たちの短い人生において,奇跡的に関わり合えたひと達と永遠に歩んでいけるわけではない.いつか,そのひと達と歩んだ時間とはさよならをして.また次の時間を見つけ,何とか折り合いを付け,寄り添いあって…….俺たちはそういう風に繰り返し,いくつもの終わりに向かい歩いて行くしかないイキモノだから.(中略)ここから先は,ふたり一緒の最高の人生が待っている.そんな予感ばかりが花咲き,止むことはなかった.(「さくら、もゆ。」柊ハル)
「こうして大雅に抱きしめられたら……不思議だよ.今までのさみしいことも.今もまだ,胸がずきずき痛いのも.全部.幸せな思い出になってくれるんじゃないかって,思えるよ」(「さくら、もゆ。」クロ)
どの時間世界も,永劫回帰を受け入れた先の生として解釈してもよいだろう.そこで語られていることは,力への意志として何かを目指していくものではない,ただ目の前にあるものとして生を肯定し生きていくことである. 夜の時間というパラドキシカルな場を媒介とし,恋という契機を利用し生を受け入れるということ.過去や人が変わる以上,それは同じ形式をとらないが,各ルートでなされていることはそれに他ならない.
夜月姫織は,夜の中でナナちゃんから母親のことを聞くことで.杏藤千和は,ナハトとソルという“夜の怪物”を通して,柊ハルは,夜の中で母親と話すことで,クロは,夜の繰り返される時間の中で奏大雅へ“勇気”や“希望”を与えられたことで,そして奏大雅は,クロを通して.
夜の時間の存在意義はそこにこそあるのではないだろうか.自身が含むパラドックスによって,力への意志の空間と永劫回帰の空間を相互作用させられること.そして,それによって永劫回帰としての生を歩ませるということ.それこそが夜の時間が果たす機能なのである.だから,クロルートでは“奏大雅”が交わりえぬ時間世界を移動したということが起きているのである.この直線としての時間世界では決して起こりえない結果は,力への意志の空間としての夜のみがなせることである.それは,永劫回帰の空間では起こりえなかっただろう.力への意志と永劫回帰の両者はどこまでいっても混じりあうことはない,ゆえに夜の時間は永遠にその二面性を持ちうる場である.だからこそ,夜の時間という薄膜を突き破ることで人は永劫回帰の位相へと至ることができるのである.そうして,ニヒリズムの極限として得られた,光り輝く人生.それが「さくら、もゆ。」の終着点である.
永劫回帰を廻って
ここまで,「さくら、もゆ。」の世界を介して永劫回帰を語ってきた.しかし,生の中を生きる人にとって永劫回帰とは,語りえぬものなのではないだろうか.永劫回帰は主張として無意味なのではないだろうか.答えはYesである.永劫回帰は主張として語り得るものではない.本来この種の思想は語ることはできないし,語られることもないだろう.永劫回帰を生きる生は“ただそうである”という点において,語ることもないし,力への意志を生きる生は語ることはできない.そういうものなのである.しかし,「さくら、もゆ。」の中で力への意志の空間を飛び出し永劫回帰の空間へと至る一つの生=物語を描き切ることで,永劫回帰の生を示し得たのである.この「さくら、もゆ。」という物語の真価はそこにこそある.力なきものを救う最大の聖なる,デュオニソス的な,肯定.運命愛.それが「さくら、もゆ。」という物語である.いや,むしろこうイマージュするべきであろう.「おまえの内なるなんらかの神」と.
それでは,もはや語れるものではなくなった永劫回帰とはなんなのだろうか.そう.永劫回帰は祈りなのである.「ああ,この人生よ.願わくば,無限に繰り返されておくれ」.“私”の生とこの世界に対する内側からの祝福,それが永劫回帰なのである.
だが,これが――私の趣味である.――よい趣味でも悪い趣味でもなく,私の趣味である.私は,私の趣味をもはや恥とせず,ましてや秘めることはない.私に「道」を尋ねたものにはこう答えた.「これが――私の道だ,――きみたちの道はどこか?」と.万人向きの道など,存在しないからだ.(「ツァラトゥストラはかく語りき」「重力の精」2)
最後に永劫回帰の祈りを最も“示している”作中の部分を引用して締めくくろう.
「これは君の人生だ.これは,君だけの物語なんだよ.だから俺じゃあ救えなかった.どころか,立ち向かうことさえ困難だった――
――だからこの物語は君にしか乗り越えられない.君にしか,この“絶望”は倒すことはできないんだ
なぜなら,君の“人生”(物語)を救うことができる唯一のヒーローは,いつだって,自分自身だからだ」(「さくら、もゆ。」クロ)
参考文献
「これがニーチェだ」,講談社現代新書,永井均
「ニーチェ入門」,ちくま新書,竹田青嗣
「バタイユ入門」,ちくま新書,酒井健
「瞬間と永遠:ジル・ドゥルーズの時間論」,岩波書店,檜垣立哉
「ドゥルーズ入門」,ちくま新書,檜垣立哉